冬来たりなば春遠からじ、スミレ咲く
もう冬だというのに、11月に紫のスミレの花が咲いていた。
先日、草刈りをしていたので、その反動で急に花を咲かせたのだろうか。暖かい日が続いたからなのか。草を刈られた後に、小さなスミレがぽつぽつと葉を広げ、花を咲かせていた。
山焼きというものがある。山の枯れた草に火をつけ燃やしてしまう。そうすると新しい新鮮な草が生えてくる。平地の場合は野焼きともいう。
焼くことによって古いものを浄化し、新しい芽を生むのだ。
子どもの頃、ヒヤシンスの水栽培が流行(?)した。球根の下部を水につけておくと根が出てくる。注意事項は、球根を水につける前に、冷蔵庫に入れなければならない。そうしないと綺麗な花が咲かない。一度冬の寒さを経験しなければ花が咲かないのだ。
桜も同じ。冬の寒さを経験して、桜は花を咲かせる。早く咲かせたいからと、ただ優しく温めるだけでは花が咲かないのだ。桜は、冬の厳しさがなければ花を咲かせないのだ。
冬来たりなば春遠からじは、
寒く厳しい冬が来たということは、暖かい春が目の前まで来ている、
という意味。
イギリスの詩人シェリーの「西風に寄せる歌」の一節
If winter comes, can spring be far behind?
を明治の人たちが訳したものと言われる。
明治期は、世界に追いつけとばかりに、海外のあらゆるものを輸入した。玉石混交であらゆるものを輸入した。文学や詩も、そんな中のひとつだろう。
新しい刺激があって新しいものが生まれる。役に立つ技術を輸入するだけの文明開化では、今の日本はなかったかもしれない。
世の中は、単純なものではない。
江戸時代においても、人々は新しいものを目指した。
何の役に立つのかわからないエレキテルを平賀源内が作った。そして新しい化学反応が起きる。何もないところからは何も起こらない。
平賀源内は、西洋絵画を広めたことでも知られる。エレキテルは発明ではなく、実は外国製のものを修理修復したのだ。それが日本人に新しい発見をもたらした。
人々の目を開かせたことでは、源内は作家、戯作者・風来山人としても有名で、「根南志具佐(根無草)」「放屁論」等が知られている。題名だけでわくわくする。新しいものを次々に発表している。
土用の丑の日にウナギを食べるのも、源内がキャッチコピーを作ったからだとも言われる(諸説あり)。夏場にはあまり売れなかったウナギがこれで売れるようになった。今でも土用丑の日は生きており、ウナギ本来の旬である秋〜冬より、旬ではない夏の方がウナギは売れる。
言葉一つで世に中が変わる。
今や高級品になったマグロのトロも、昔は脂っぽいからと捨てられていたものだ。人々は赤身は食べるが、トロはシーチキンにでもしないと食べられないものだった。食文化すら、ちょっとしたことで変化し、新しい文化を生む。
土用丑の日にウナギを食べること、マグロのトロをありがたがることは、そんなに昔からあったものではない。節分の日に巻き寿司を食べる風習など、もっとも新しい文化のひとつだろう。コンビニが流行させた文化だ。何かのきっかけで、新しいものが生まれる。
人生も、ひとつの方向からだけ見ていたのでは、見えないものもある。一度すべてをリセットしてみたら、新しい芽が生えてくるかもわからない。
苦しいことが続いていても、どんなに寒く厳しい日が続いていたとしても、行動することによって、そこから新しい春の光が見えてくるだろう。