「つまらない長編を読ませたかった」!?|思い出図書 vol.08
わたしは学生時代に文芸創作のゼミに属していたのだが、前期は教授指定の作品を読んでゼミ内で論考し、後期に各自執筆・講評、という構成になっていた。
大学3年の前期の授業で、教授が指定したのは田山 花袋の「田舎教師」だった。
「みんなが『つまらない』と思うような長編を読んでもらいたかったから」という選定理由に、ゼミ生は驚愕したものである。
ちなみに2年の時は韓国の私小説で、実際なかなか読みづらかった(翻訳がこなれてなかったのもあるし、80年代の韓国の状況・情景がよくわからなかったのもある)し、田山 花袋の「田舎教師」もスッと読めるものではなかった。
いかつい文語体ではないものの、現代語とも異なる語り口がわかりにくいとか、明治の市民生活がイメージできないとか、とっつきにくさもあった。
だが、読みづらいというよりは「内容が入ってこない」という方が正しく、その要因はひとえに「どこに関心を持ったものかわからなかったから」であった。
「田舎教師」は実在の人物がモデルになっているのだが、歴史的に著名な人物ではなく、きっと明治期にはよくいたであろう青年だ。
優秀で、大志を持っていながらも、家庭の貧しさから「就ける職」に就かざるをえない。教師となって田舎に赴任するのだが、自分の生涯とはこんな寒村で費やされて終わってしまうものなのか、と懊悩するさまが描かれる。
そう、懊悩が描かれて終わりなのだ。何か大逆転するような、盛り上がるようなことは何も起こらない。
真面目に教職を勤め、お菓子を食べ、学校出入りの料理屋のお嬢さんをちょっと気にかけ、俺より成績よくなかったくせに家が裕福だからって都会で文学やってる意識高い系の同期のやつらなんて……と妬み、自身の現状に心が塞ぐ。そういうことが延々書いてある。
読みながら「だからなんだっていうんだ……」という思いが募っていく。
ところで、前回の記事で書いたことだが、学生時代のわたしは『セックス・シーンが無くて登場人物が誰一人死なない小説は優れている』ということに囚われていた。
そして「田舎教師」はこの二点を一応クリアしており、わたしにとって何かしらのヒントになるはずだった。
彼の身に起こったことを自分の人生の出来事として想像すれば、それはもう悲劇的だ。
経済的な事情で進学を諦めるやるせなさとか、少ない選択肢の中で最低限プライドを守れるような職に就ける安堵感とか、それでも行き止まりのような環境の中であとはこのまま朽ちていくだけと感じる人生とか、波乱万丈もいいところだ。つまらないなんて冗談じゃない。
そうやって彼の状況を再理解してみると、内容がずいぶん入ってくるし面白かった。
なのに、最初に読んだときには「何も起こらない」「つまらない」と感じてしまった。
『明治期にはきっとよくいたであろう青年の話』という、わたしの知った風な無関心が理解の妨げとなっていて、きちんと読めばその悲哀は胸を衝くものだった。
きっと、この作品が発表された当時の人々は、彼の状況を悲しみ、あるいは共感し、こんな思いをしなくていい世の中になればと、静かな祈りを胸に日々を生きたのではないか。
ーー先生、確かに課題だからとぼんやり読んだらつまらないかもしれないですが、作品世界の出来事と自分の感情をリンクさせることができれば、決してつまらない長編などではありませんでした。
自分の無関心が恥ずかしいです。
そして、セックス・シーンが無くても、誰も死ななくても、人の心を動かす物語とするには、どうやって読み手の共感を得るかが鍵となりそうです。
よく言われるようなことですが、それが体感としてわかった気がします。
田舎教師(田山 花袋)
新潮社