『万物の黎明-人類史を根本からくつがえす』を読んで
先日、デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウの共著作『万物の黎明-人類史を根本からくつがえす』(原題:The Dawn of Everything)を読み衝撃を受けた。今まで教養として学んできた当たり前の前提から立ち戻ることになり、私が理解していた人類史が見事に根底から覆された。
要約
当書は、人類史を再評価し、社会的不平等の起源や都市、文明、国家の形成及び発展、初期の人類社会の性質について多様な証拠とともに詳しく述べている。また、狩猟採集から農耕社会、最終的には国家への社会形態の変遷に関する言説がいかに偏っていて単純化しすぎているのかについて否定している。著者らは、「私たちはなぜ不平等になってしまったのか」という問いではなく、「そもそもなぜ不平等がこのように争点になったのか」という問いから出発した。その中で、彼らは、いかに現代の歴史観を自ら「つまらないもの」にし「閉塞」してしまったのかという問い(これは不平等への問いというよりむしろ不自由への問い)への発展を通して、ホッブスやルソー、さらに現代においてはスティーブン・ピンカーやユヴァル・ノア・ハラリらが提唱している理論を否定する。当書は、約三十万年前からの人類の歴史を再評価し、従来考えられていた「狩猟採集社会から農業社会への移行」を必然的な結果ではなく、社会的選択と文化的な発展の結果であったと主張する。さらに、昔の人々は自らが好ましい状況、「儀礼」として表現される文化や価値観、外部の脅威に対する反応として、複数の社会形態を試行錯誤し、自由に選択してきたことを示している。社会は現在語られている以上に複雑で、直線的あるいは画一的に語られるものではないのである。また、「不平等の起源」という概念に関しても、現代において認識されているものとは大きく異なると主張する。財産の傾斜分配や私的所有は必ずしも権力と結びつけられていなかったし、初期の社会は必ずしも階層的で抑圧的ではなかった。むしろ平等で民主的な組織が存在していたのである。さらに、我々が現在認識している「国家」(ここでは暴力(主権)、情報または知(行政管理)、カリスマ(競合的政治フィールド)の集合的概念を指す)は、国家と呼べる様々な組織形態的の中で、「近代国家」に該当する極めて異例な対象にのみその概念を付与しているのであって、実際には、国家というものは、上記で述べた暴力、情報、カリスマの三つの条件があらゆる組み合わせの中で語られるべきものであると主張する。このように当書は、人間の歴史が多様かつ柔軟であること、今まで語られてきた人類史観とは大きく実態が異なることを、考古学、人類学的アプローチを通して示している。
感想
次に、『万物の黎明-人類史を根本からくつがえす』を読んだ感想を大きく以下の4つの観点から述べていく。
我々はいかに西洋史観に囚われているか
我々はいかに物語(ナラティブ)を好むか
我々はいかに偏った「革命史観」を持っているか
我々はいかに不自由に対して新たな対策を取れるか
①我々はいかに西洋史観に囚われているか
私がこの本を読んで一番衝撃を受けたのは、自分の概念の形成や人類史への理解がいかに西洋史観に囚われており、それを自覚できていなかったかということであった。学校で学んだ社会形態や制度の変遷に関する知識はまさに矢印を用いて直線的に表現されていたものだったし、近代以降の国家の概念に収まりながら生きている私にとっては、ホッブス・ルソー的パラダイムに立脚して思考することは疑いのないものだった。しかし、それはある意味社会的、文化的選択の中で西洋人によって提唱されたナラティブに過ぎないものであり、数多く存在する国家論、社会論、人類史観のほんの一サンプルにすぎなかったということを、どうやら私は忘れていたようである。しかし、この当たり前だと思っていた諸概念に新しい反論が証左とともに登場した今、家父長制、戦争と平和、物質的繁栄、幸福といった概念も芋づる式に再検討してみるべきだと思った。また、ここにきてやっとレヴィ=ストロースやマルセル=モースといった人類学における「構造主義」を提唱した学者たちの発見や研究結果が繋がり、人類史をより多角的に捉えられるようになったと感じた。
②我々はいかに物語(ナラティブ)を好むか
17,18世紀にホッブス・ルソーなどによって語られた国家や不平等に関する理論は、我々に「人間とはどのような存在か」、「人間はどのように生きるのか」といった問いにドラマチックに答えてくれる。それ以降、西洋国家はこれらの理論を美しい物語に仕立て上げ、あらゆる選択と実行を正当化してきた。現代社会に生きる私も、最近ビジネスシーンでストーリーやナラティブという言葉をよく聞くようになった。実際に人々を惹きつけ熱狂させるためには、秀逸な物語が有効であると思う。しかし、物語は諸刃の剣である。衝撃的でシンプルなナラティブは人を惹きつけやすい反面、人々を恐ろしい道へ導くこともある。どこかの大統領がシンプルなメッセージで人々を熱狂させポピュリズムを加速させ分断や差別を生み出しているように、物語の取り扱いは要注意である。とはいえ、このような人間の特性を改めて認識したとき、なんて人間という生き物は滑稽なのかと笑えてくるのは私だけだろうか。必死に物語を作り、進む過程で己を説得させながら必死にその物語に合う実を積んでいく。それが人間の愛おしさなの根源なのだろうか。
③我々はいかに偏った「革命史観」を持っているか
トーマス・エジソン、スティーブ・ジョブス、イーロン・マスク、サトシ・ナカモト…誰もが上げるイノベーターが脳内に入ってくるたび、私はどこかのカリスマが新しい技術を発明し革命を起こし、社会を進めてくれるものだと認識してきた。本当にそうなのだろうか。答えは否。当書で教えてくれたその答えは、私にとってある意味心地の良いものであった。新石器時代に生まれた人類史における重要な革新のほとんどは、天才的な男性による孤高のビジョンの達成にあったのではなく、主に女性たちによって何百年にわたって蓄積された知識の集合体の結果だったのである。革命史観のみならずジェンダー論的観点からも、この研究結果は意義深いものになったのではないだろうか。また、私の好きな言葉に、
という未来学者ロイ・アマラ氏の言葉がある。人間の想像はどうしても自分たちが生きる数十年、百年に収束してしまうからか、最大瞬間風速の高いものにすがり、そこから希望を見出そうとする。しかし、大半の変化や革新はゆっくりと次第に現れることを忘れてはいけない。そしてそのインパクトを過小評価するのは勿体無いように思える。次世代へ想像を膨らませること、自分が生きている間に何ができるか、そしてそのバトンをどのように次世代へ渡せるのかを考えることがもっと重要なのだと思う。
④我々はいかに不自由に対して新たな対策を取れるか
最後に、未来への対策に関する考えをまとめてみようと思う。当書を読んで様々な凝り固まった概念や、それとは異なる多様な社会や文化形態を知ることができた。それによって、今までとは違う新しい観点から不平等や不自由に対してアクションが取れるのではないかという微かながらの希望が見出せた。勝者/敗者が作られてしまう自由ではなく、真に相互扶助的で社会福祉的要素の中で守られる自由がこれからもっと探求されるべきだと思う。現状不可能だという答えがすぐに出てきそうだが、当書で指摘されていたように、相互扶助に裏打ちされた社会はそう珍しいものでも難しいものでもなかった。我々が見逃してしまっている実現のためのエッセンスが、長い人類史の中にはたくさん詰まっているのではないだろうか。それらの可能性を検討してみたり、発見のために動いてみたり、現代社会で様々な方法で実験してみることが、これから私たちに託された「やるべきこと」なのではないだろうか。そんなことを繰り返しているうちに、今までよりももっと居心地の良い社会が作られたら素敵だと思う。