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時間切れ!倫理 31 イデア論
プラトンの説で一番重要なものがイデア説とかイデア論と呼ばれるものです。プラトンは、われわれが感覚でとらえるこの現象世界とは別に、イデア界が存在するといいます。その世界こそが真実の世界で、善のイデアや美のイデアや人間のイデア、机のイデア、犬のイデアや猫のイデアがある。これは永遠不滅。現象世界で我々が見たり感じたりする善、美、人間、机、犬、猫はみなイデア界にあるそれぞれのイデアを分有している。しかし、それは不完全です。
三角形の例は分かりやすいかな。完璧な正三角形を現実に描くことはできません。そもそも直線は定義としては太さがない。太さがない線分を書くことは不可能です。仮に太さのない線分が描けたとして、全く誤差がない同じ長さの線分や、全く誤差のない60度の角を描けるでしょうか。不可能です。この現実世界で正三角形を描けないとしても、正三角形というものは存在する。ある、でしょ。それはイデアの世界にある。そう考えるとイデアを理解しやすいとおもう。英語のidea(アイデア)の語源です。
ソクラテスが探し求めた徳そのもの、無条件の善、勇気、正義、それらがイデアとしてイデア界に実在する、とプラトンは考えた。なぜ、そんなことを考えたのか。それもソクラテスに理由があります。
なぜ徳が理解できるのか
ソクラテスは、さまざまな人々と議論を交わした。たとえば、勇気について、正直であることについて。質問を繰り出すソクラテス自身も、それらが何かという説明はできませんでしたね。しかし、説明できなくても、ソクラテスも含めてわれわれにはなにが勇気か、なにが正直かはわかる。説明できないのに、なぜわかるのか。
こんな会話があります。
…メノンは、ソクラテスに質問した。
“あなたは、徳が何であるかを知っているのか?”
ソクラテスは、“知らないから、徳が何であるかを知りたいのだ”と答えた。
すると、メノンは、ソクラテスに対して、さらにこう質問した‐‐ “それでは、あなたは、まだ知らないことを、いったいどうやって探究するつもりなのか?答えを探り当てたとしても、知りもしないものについて、その答えが正しいとなぜわかるのか?”
ソクラテスの答えはこうです。
“魂は不死であり、あの世のものやこの世のもののすべてを見て知っている。つまり、魂は、徳や、その他のあらゆるものについて本当は知っているのであるから、知らないことを知ったというのは、実は昔から知っていたことを思い出すことにすぎない。知ったと人がいうとき、それは魂が神の国にいたときに見ていたものを思い出したということなのだ”
魂がこの世とあの世を行ったり来たりする。あの世をプラトンはイデアと名付けたのです。そこは真実の世界。この世に生まれ出たわたしたちの魂は、おぼろげながらイデアの世界を覚えているので、わかるのだという説明です。これを想起説といいます。
「自分が知らないことを自覚している」ことがソクラテスにとっては重要でしたが、ならば「知らないことをどうやって知ることができるのか」というメノンの問いかけは非常に需要だと思います。自分の感性や知性がカバーできる範囲の、その向こう側に、どうやって人間はアクセスできるのか。新たに知りえたことが正しいとどうやって判断するのか。じつは、哲学、もしくは認識科学の大問題です。こういう問いかけはエキサイティングだとおもいませんか。
恋愛をしたことのない人には、恋というのがどんな感情なのかわかりません。しかし、初めて恋をしたときに、だれに教えてもらわなくても、その感情が恋だということはわかります。なぜ?
話はそれますが、恋愛に関してプラトンは『饗宴』の中でこんな議論をしています。人間はもともと手足がそれぞれ四本ずつあって、頭も二つあった。男女で一体だったものもいれば、男男、女女で一体だったものもいた。その人間たちは非常に強力で、神々さえ脅かしそうになったので、ゼウスは人間を二つに割った。その結果、人間は、頭は一つで手足は二本ずつになった。その後人間たちは、もともと自分と一体だった残りの半分を求めるようになった。これがエロース。さらに、イデアの世界の完全さ、善や美をもとめる欲求のこともエロースという。