『映画ドラえもん のび太とロボット王国』が描いているもの
はじめに
私と映画ドラえもん
私は、ドラえもんっ子です。
それはもう恥ずかしいくらいに、ドラえもんが幼少期の全てでした。
学校から帰って、毎日劇ドラのビデオばかり観ていました。
1995年、「創生日記」公開の年に生まれた私が最初に映画館で観たのは、恐らく「翼の勇者たち」(2001)だったと思います。
「ロボット王国」はその翌年の2002年に劇場公開された、劇場版23作目です。脚本は岸間信明さん、監督は芝山努さん。
F先生没後オリジナル作品
タイトルの通り、ロボットのお話です。
ロボットがテーマの劇場版は「鉄人兵団」「ブリキの迷宮」があります。
どちらもF先生の存命中に描かれた作品である一方、「ロボット王国」はF先生没後の作品です。
ロボット王国が描いているもの
世代的に思い入れの深い作品というのはあるのですが、それを抜きにしても好きな作品のひとつです。
何年も前にXで簡単に纏めたことがあるのですが、改めて文字にしてみます。
あらすじ
ロボットにとっての「死」とはなにか
ロボットは機械なので、故障=死になるのでしょうか?
でも、故障って割と直せそうじゃないですか。
例えば、映画ドラえもんで、ロボットであるドラえもんの「故障」を描いている作品がいくつかあります。
「雲の王国」では雷に打たれたり、雲もどしガスのタンクに突っ込んだりして。
「ブリキの迷宮」ではナポギストラー軍によって。
幼少期のトラウマになっている方も多いのではないでしょうか。
さて、この両作品ではドラえもんの故障を明確に描いていますが、それはドラえもんの死でしょうか? もちろん違います。
「雲の王国」では頭への衝撃とキー坊の特殊能力、「ブリキの迷宮」ではミニドラ、というどれも超力技によって結構簡単に直ってしまうんです。
そう、ロボットって結構直る。
その上で「ロボット王国」では何をロボットの死と定義したか。
それは、ロボットから感情を抜き取ることでした。
二度と戻らない(直せない)という「人間的(生物的)な死」の概念を与えたのです。
ジャンヌ・ポコ・マリア
子供ロボットポコを直すために彼の故郷「王国(キングダム)」にやってきたドラえもん一行。
そこは人間の王女ジャンヌが統治する国でした。
前国王である彼女の父が事故によって死に、それは「ロボットが感情を持ったせい」だと側近のロボットデスターに吹き込まれたことで、ロボットから感情を奪い、ただの道具としてのみ存在させるべく「ロボット改造計画」を実施します。
ポコの母親であるロボットのマリアは既に捕まっていますが、かつてジャンヌの養育係であったこともあり、ジャンヌはマリアに対しての感情を捨てきれず、牢屋に閉じ込めているのでした。
虹の谷
物語終盤、デスターに謀反を起こされたジャンヌは傷付き、ポコに背負われ虹の谷に運ばれます。そこは、ロボット改造計画に反対する人間とロボットたちが農業をしながらささやかに暮らす理想郷でした。
その光景を見たジャンヌは、前国王である父が目指していた王国の姿を想い、改造計画の中止を決めます。しかし時すでに遅し、デスターが国王の座を我が物にしているのでした。
本当の死
最終盤、デスターは巨大ロボットで抵抗します。
マリアを助けにその中へ飛び込むドラえもん。
デスターをKOしますが、はずみでロケットの発射レバーが引かれてしまいます。ドラえもん・マリア・デスターという3体のロボットを乗せたロケットは操縦不能に陥り、このままでは惑星に衝突します。
これ、冷静に考えるとやってることエグいです。
「ロボットから感情を奪う」という死は、人間とロボットの絆がある限り成立しない。であれば、「ロボットにとっての本当の死」をどう表現するのか。
この映画で出した答えは、
みんなまとめてロケットで惑星に突っ込ませる
という、超物理的破壊なのです。
木っ端微塵になれば直せないだろうという。凄い。
それまでの約1時間は一体なんだったんだ(褒めてる)
最後のお別れ
しかも、キャラクターに最後のお別れをさせるんです。
ドラえもん・マリアは自分が死ぬ事を受け入れ、通信画面の先にいるのび太・ポコ・ジャンヌに生前最後のメッセージを伝えます。
すごくないですか。ドラえもんでこれやってるんですよ。メインキャラみんな泣きながら。
マリアは自分を投獄していたジャンヌに対し「ママはあなたを信じてました」と伝えます。
ドラえもんはのび太に対して「宿題を忘れないように、喧嘩しないように、しずかちゃんと幸せに」と伝え「それから、ママに…」と言いかけたところで通信は途切れてしまうのです。
親子の絆
この物語は「人間とロボットの絆」をテーマに進んでいました。
それを最後の最後になって、人間もロボットもそんなの関係ない、ロボットも人間も家族になれる、というところから、最終的には「母と子の普遍的な絆」へと帰着させるのです。見事。
デスターの正体
なんやかんやあって勿論みんな助かるのですが、そこから出てきたデスターは仮面が剥がれ、中から人間が出てきます。
そう、ロボットだと思っていたデスターは人間だったのです。
えぐい。
ロケットという棺桶の中で「死」に向かっていたのは、ロボットだけでなく、「2体のロボットと1人の人間」だったのです。
これをこのお話の中でやる。鳥肌が立ちます。立ったでしょう?
「人間の死」と「ロボットの死」を同じものとして定義することに成功しているのです。
ママに会いたい
エンディング、ジャンヌとポコに王国に残るよう頼まれるのび太たちですが、「みんなママに会いたくなったみたい」というドラえもんの一言で地球へ帰ります。
帰宅してママ(玉子)に抱きつくのび太、それを見て「いいな、みんなママがいて」とこぼすドラえもん。
それを聞いたママは「何言ってるの、ドラちゃんだって私の子供よ」
ここで主題歌IN。
いやー完璧すぎませんか!
綺麗すぎる。
それはまさしく、ジャンヌに対するマリアの愛と同じなのです。
それを人間とロボットの立場を入れ替えて最後に再提示することで、「人間とロボットは同じ」というこの映画の「思想」を完成させているのです。
ロボットアニメである「ドラえもん」で。
こんなに難しい課題を達成し、且つここまで綺麗に終わらせる映画、そうそう出会えるものではありません。
因みに、本筋とは関係ありませんが、悪役デスターの声を担当するのは「紅の豚」でポルコを演じた森山周一郎さんです。
めちゃくちゃ渋い美声が聴けます。
さいごに
というわけで、みなさん「ロボット王国」観ましょう!!!!!!
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