思ひ出夜行 拾遺
いつもお読みいただき、ありがたうございます。和歌(やまとうた)とサウナ、そして旅を愛する偏屈女、玉川可奈子です。
いくら親しい関係であつても、会ふなり太つたかどうか聞いてくる人間はクズ、クズで悪ければ失礼きはまりない人間です。さういふ人間とは容赦なく関係を断ちませう。
また、錣山親方の急逝、まことにまことに哀しきことです…。角界一の良い男、まさに寺尾は私のアイドルでした。
さて、今まで十話にわたり「思ひ出夜行」シリーズとして私が過ぎ去つた古へに乗り、思ひ出せば懐かしい夜行列車について記してきました。そして、それらの列車はもう二度と乗ることができない記憶と記録の彼方に消えてしまひました。
今回は、十話から漏れてしまひましたが、個性的で忘れられない列車を簡単に振り返ります。どうか、最後までお付き合ひください。
写真のほとんどは、Wikipediaから拝借しました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。
寝台特急さくら
今でこそさくらは九州新幹線ですが、当時は寝台特急でした。さくらはわが皇国を象徴する美しい花、その花の名を冠する列車は、東京駅と長崎駅とを結んでゐました。
大学四年生の秋。大分県の天ヶ瀬、由布院、別府の温泉巡りがしたくて、寝台特急さくらに乗りました。
天ヶ瀬では、川原の露天風呂に入りました。
由布院では金鱗湖のそばにある、共同浴場に入りました。
話しは戻つて、席は開放式B寝台の下段です。
車内はガラガラで、東京の「空気」を長崎まで運んでゐる感じです。
この時、前の寝台にゐた長崎から東京に研修に来てゐたといふおばさんと談笑しました。彼女は、小売業(地元のスーパー)に三十年以上勤めてゐるベテランだといひます。面白いお話をたくさん聞きましたが、聞けば聞くほど、小売業に魅力を感じませんでした。
かくいふ私は、都内の大手のスーパーに内定してゐましたが、就職後わづか一年で辞めました。辞めて正解だつたと今でも思ひます。
パワハラ騒動もあれば、ブラック企業大賞にも選ばれました。今ではイオンの子会社です。
この時、特急ゆふいんの森に初めて乗りました。素敵な列車でした。
さくらに乗つたのはこれが最後になりました。私の手元には、昭和六十年の日付の入つた写真が一枚残されてゐます。私が、寝台特急さくらの前で撮つた写真です。その日から十数年の時を経て、成長した私が乗るのを列車は如何思つたのでせうか、列車に心があるならば聴いてみたいものでした。
「思ひ出夜行 富士・はやぶさ」にも書きましたが、さくらも幼少期から馴染みのある列車でした。
平成十一年の十二月四日から、熊本駅行きのはやぶさと併結してゐました。
また、桜の花は、私がわが皇国に咲く花でもつとも好きな花です。
本居宣長大人の、
しきしまの 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山さくら花
はもちろんのこと、『万葉集』の若宮鮎麻呂が口誦してゐた、次の長歌も思ひ出されます。
をとめらが かざしのために みやびをの かづらのためと しきませる 国のはたてに 咲にける 桜の花の にほひはもあなに (巻八・一四二九)
反歌
去年の春 逢へりし君に 恋ひにてし 桜の花は 迎へけらしも (巻八・一四三〇)
寝台特急さくらの廃止は、平成十七年三月一日でした。下り列車は長崎駅まで行かず、鳥栖駅までの運行でした。私が最後に乗つた年の翌々年のことでした。
そして六年後の平成二十三年三月十二日、九州新幹線の全線開業とともに、さくらは新幹線として復活しました。現在は新大阪駅と鹿児島中央駅とを結んでゐます。
折しも、大国難、東日本大震災の時。ACのCMばかり放送されてゐましたが、JR九州は次の大変素敵なCMを作成してゐました。
このCM、何度観ても涙が止まりません。わが皇国民の優しさ、そして強さが顕れてゐる、実に美しいものでせう。体中、「ぬくぬく」になる作品でせう。
ムーンライト松山
ムーンライト松山は、京都駅と松山駅をつなぐ夜行列車でした。二十三時を過ぎた京都駅を出て、未明の瀬戸大橋を渡り松山駅まで行きました。岡山駅までは、ムーンライト高知とムーンライト山陽を併結してゐました。
深夜の岡山駅は、「ムーンライト」が出会ふ奇妙な駅でした。
松山に乗つたのは、記憶にある限りで三回になります。
一度目は、四万十川沿ひを走る予土線のトロッコ列車に乗り、道後温泉に入つた後、京都駅に向かひました。
二度目は、ムーンライト八重垣で出雲市駅から岡山駅まで乗り、深夜の岡山駅で乗り換へて道後温泉に行つた時。この時、帰りに高松駅からサンライズ瀬戸に乗りました。
三度目は、京都駅から乗り松山駅で降り換へ、八幡浜駅まで行つてフェリーで別府に行つた時。
初めて乗つた時は、ムーンライトに二日連続で乗つた後だつたので、乗り心地の悪い車内でもすぐに深く寝てしまひました。初日、ムーンライトながらを岐阜駅で降り、下呂温泉に行きました。
そして、京都駅からムーンライト高知に乗り、高知駅で降り、そのまま土讃線、予土線を経由して松山駅まで行きました。超強行軍旅行です。若井駅が途中にありましたが、玉川、若いですね。今はもう無理です。
二度目も強行軍です。大社をはじめとする出雲市内や松江市内を訪ねました。松江護國神社では、奇跡の椰子(複製)があり、涙しました。
なほ、実物は靖國神社の遊就館にあります。
小泉八雲ことヘルンの旧居にも行きました。ここは、ヘルンの著作を読んでから行くと、楽しめます。
その帰りに、ムーンライト八重垣で岡山駅まで行き、未明の岡山駅でムーンライト松山に乗り換へました。あまりにも眠くて、寝付きの悪い私もすぐに寝てしまひました。
若かつたころの思ひ出が詰まつたムーンライト松山は平成二十一年のダイヤ改正で廃止されてしまひましたが、この列車に運用されてゐた12系客車は、東武鉄道のSL大樹で乗ることができます。
できれば現役時代にグリーン車に乗つてみたかつたものでした。
大樹、征夷大将軍の異称である大樹将軍からきてゐるのでせう。征夷大将軍とは、日光東照宮に鎮座する徳川家康であることはいふまでもありません。それにしても、大樹とは良い愛称を付けたものです。
ドリームにちりん
別府を旅した際、宮崎まで行くのに乗りました。
この列車は、博多駅から小倉駅経由で宮崎空港駅までを結ぶ夜行列車でした。かつて存在した急行日南(門司港駅〜西鹿児島駅、日豊本線経由)を特急に格上げしたものでした。
前々日、京都駅からムーンライト松山に乗り松山駅まで行きました。道後温泉に入つた後、松山駅から八幡浜駅まで行き、フェリーで別府まで行きました。
船の揺れ、夜行列車の後といふことで、船内は爆睡でした。この日は別府保養ランドに行きました。泥湯で、お肌がツルツルになります。相変はらず、女性が出てくるところがよく見えるところで覗いてゐるキモいおつさんがゐました。混浴で覗いてくるキモい男は、AVでも観てゐれば良い。
市内のホテルに一泊し、翌日は由布院や長湯温泉に行きました。今でこそ銭湯で高濃度炭酸泉に簡単に入れますが、当時、身体中にアワアワが付く温泉は珍しく衝撃的でした。
そして、深夜の別府駅からドリームにちりんに乗りました。列車が来るまでの間、駅で待つてゐたら、薄汚いをぢさんに声をかけられました。
「お姉ちやん、こんな遅くに何してんの?」
「電車を待つてるんです」
「こんな遅くに来るんか?」
「来るから待つてるんです」
「どこから来た?」
「東京です」
とりとめのない会話から、なぜか意気投合し、列車が来る直前の深夜一時くらゐまで二人で花札をしてゐました。ビールをおごつたら、とても喜ばれました。
遅かつたので、ドリームにちりん乗車後、すぐに寝てしまひました。さすが、783系。乗り心地がよく、気が付いたら宮崎駅でした。
翌日は南宮崎駅から日南線で志布志駅まで行きました。忘れ難い車窓でした。
志布志駅からバスで鹿屋を経て、桜島に出ました。古里温泉(桜島シーサイドホテル)に入つたこと、今でも忘れられません。
寝台特急北斗星
北斗星には、四回乗りました。北へ行く豪華な寝台特急は、カシオペアが現れるまではまさに花形といふべき存在でした。上野駅と札幌駅を結ぶ寝台特急です。
私が乗つた中でも面白いのは、小幌駅に行つた時です。夜明けの長万部駅で降り、普通列車に乗り換へて早朝の小幌駅で降りました。
二十代のうら若きをとめがあんな駅で降りるとは…。一応、玉川、柔道は有段者。学生時代は水泳部でした(なので少しゴツい。種目はバタフライでした。当然ですが、池江璃花子には顔も泳ぎも及びません、また野球も少しやつてゐたので稲村亜美のやうな投球もできますが、彼女には顔もスタイルも及びません)。
小幌仙人(小幌に住みついてゐた老人、故人)には会へませんでした。
誰もゐない、特急列車が轟音と共に通過して行くまさに秘境といふべき駅は圧巻でした。左右をトンネルで囲まれてゐるため、圧迫感がありましたし、上を見ると遠くに車道らしきものが見えました。
木造の小屋(待合室?)と保線の人たちのプレハブがあり、その先に細い道がありました。少し歩くと、妙な乞食の家(小幌仙人の家?)が現れましたが、怖くなつてここで引き返しました。
まさか、小幌駅に行くために北斗星に乗つたのか、といふと半分くらゐ正解です。残りの半分は、留萌本線や根室本線の乗り潰しのためです。
まりも
新札幌駅前の温泉に入り、旅の汗を流したその夜。ぬばたまの夜の札幌駅。当時は活況を呈してゐました。青森駅へ向かふ急行はまなす。稚内駅へ行く利尻。網走駅へ行くオホーツク。さらに早い時間には、北斗星、日本海、さらにエルムやトワイライトエクスプレスなど、多くの夜行列車が発着してゐました。
その中でも、まりもは釧路駅へと向かふ列車でした。B寝台も併結してゐました。さらには、北斗星の車両を用ゐた北斗星まりもなる列車も走つてゐたほどでした。
私は、座席車に乗り、後ろの人がゐないことを確認してからリクライニングを倒しました。
札幌駅から釧路駅まで乗り、釧路駅から根室駅まで行きました。
根室から納沙布岬に行くこともなく、すぐに釧路駅へと折り返しましたが、遠く千島の果て、占守島まで思ひを馳せました。占守島は、国際法違反を犯したソ連が、終戦間際に攻め込んできた千島列島の最東端に位置する島です。
その占守島を守るため、約四百名の女性を逃し、戦つた勇士たちを偲び、「海ゆかば」を歌ひました。
「海ゆかば」について、以下をご参照ください。日本学協会発行の「日本」に書かせていただきました。
どれも全て過去の列車になり、記憶の中を永遠に走るだけです。しかし、年齢とともに記憶も曖昧になり、覚えてゐないことも多くなりました。せめて、今、この時に覚えてゐる夜行列車の思ひ出をここに書かせていただきました。お読みになつた方々が、懐かしさや共感を少しでも覚えていただけたら幸甚です。