いつもお読みいただき、ありがたうございます。玉川可奈子です。
今回も引き続き、平泉澄先生の『芭蕉の俤』(錦正社)を見ていきませう。
陶淵明
前回は木曾義仲、そして、源義経でした。彼らは敗者でありましたが、そのこと以上に「美しい人」たちでした。
ここから本邦より移り、支那の傑士について話しが変はります。「第五 陶淵明」を見てみませう。
まづは陶淵明の歿年について記してゐます。なほ、角川の世界史辞典も、陶淵明の歿年を「427年」としてをり、本書と共通してゐます。
陶淵明は仕官しても、すぐ辞めてしまひました。その理由と、当時の晋王朝について簡単に記してゐます。
陶淵明は、年号を使用せず、甲子によつて年を表記した点にも触れられてゐます。
「帰去来の辞」に対し、私は強い共感を抱いてゐます。今から八年前、島根県出雲市から帰る時、たびたびこの詩を口ずさみ、涙しました。なほ、「帰去来の辞」は、上にもあるやうに浅見絅斎の『靖献遺言』に収められてゐます。講談社学術文庫本の『靖献遺言』にもありますので、併せてお読みいただけたら幸甚です(電子書籍でも読めます)。
「帰去来の辞」は陶淵明が官を辞し、故郷に帰る時に作つたものです。
彼のいはゆる「退職理由」ですが、「俗物汚吏の使役に甘んずるに堪えへ」られなかつたのでした。今風にいへば、つまらない仕事とつまらない人と一緒にゐたくなかつたとなりませうか。仕事を辞めれば、生活は厳しくなりますが、公務員を続けて自分を苦しめるのはもつと嫌だつたのでせう。
しかし、真の「退職理由」は、妹の死だつたと先生は述べてゐます。
陶淵明は家族を愛した情の人だつたのです。
そして、彼は世捨て人のやうに生きてゐるやうに見えて、決して世を忘れたわけではありませんでした。
私は、支那人の中でも特に陶淵明を尊敬するのは、わが国の橘曙覧先生に似たところを見出すからです。曙覧先生も決して世を捨てた人ではありませんでした。
「家の歴史に深く思を致す」。家族愛の原点はここにあり、それは先祖である陶侃の冥々の導きといへませう。
老荘を必ずしも「浮華」と思へませんが、敢へて私はそのことについては述べません。
陶淵明の先祖である陶侃は老子を排し、儒教に基づく人物、さらにいへば優れた政治家であり勇将であつたことはわかりませう。
芭蕉は、陶淵明を慕ひました。陶淵明は、「帰去来の辞」を見れば明らかなやうに、情の人でありました。そして、同じく情の人であつた芭蕉も彼を慕つたのでせう。
白楽天
第六 白楽天は菅公はじめ、大江氏、さらには清少納言や紫式部にも親しまれ、その作品は当時、必須ともいふべきものでした。
陶淵明以上に芭蕉が慕つた存在、それが白楽天でした。それは、その引用によつて明らか、だといひます。
芭蕉の座右には、『白氏文集』がありました。白楽天の章になり、徐々に芭蕉への言及が増えてきましたが、この一節などは注目に値しませう。
「骨髄よりあぶらを出す」との一節、胸に迫るものがあります。
白楽天は平易な文字を心がけました。それはつまり、わかりやすい文章を書くといふことでせうか。そして、この考へは芭蕉の句を知る鍵になりませう。
ここでは白楽天と杜甫を比較します。白楽天はわかりやすさにこだはつたのに対し、杜甫はさうではないといふことです。
ここに芭蕉の「言葉」に対するこだはりが見てとれませう。つまり、俗語を採り、軽みを説いたといふところです。
白楽天もまた、情の人でした。情の人、それは心の中「ぬくぬくなる」人と言つても良いでせう。
芭蕉と白楽天は切つても切れぬ関係であることが以上でわかりませう。次回は、いよいよ最終回になります。韓退之、そして最終章の芭蕉の俤を記します。(続)