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平泉澄先生『芭蕉の俤』覚書 その四

 いつもお読みいただき、ありがたうございます。玉川可奈子です。
 今回も引き続き、平泉澄先生の『芭蕉の俤』(錦正社)を見ていきませう。

陶淵明

 前回は木曾義仲、そして、源義経でした。彼らは敗者でありましたが、そのこと以上に「美しい人」たちでした。

 ここから本邦より移り、支那の傑士について話しが変はります。「第五 陶淵明」を見てみませう。

 陶淵明の一生は、晋と宋との二代に跨つてゐる。従つて其伝は、晋書にも宋書にも見え、南史にも収められてゐる。南史には元嘉四年に卒したとのみ敍して、その年齢を記してゐない。之に対して晋書には、宋の元嘉中卒すとして年を記してゐないが、その代りに時に年六十三と書いてある。二書を綜合すれば、正に元嘉四年六十三歳を以て世を終つた事になるのである。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 まづは陶淵明の歿年について記してゐます。なほ、角川の世界史辞典も、陶淵明の歿年を「427年」としてをり、本書と共通してゐます。

 当時晋の王室は猶つづいてはゐるものの、政権は既に去つて劉裕の手に帰してゐたのである。陶淵明が官途に就いて、不逞の輩の後塵を拝するのをいさぎよしとしなかつたのは、この為であつた。たとへ事情やむを得ずして官に就いても、年のしるすに大抵甲子を以てし、年号を冠するをいさぎよしとしなかつたのも、この為であつた。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 陶淵明は仕官しても、すぐ辞めてしまひました。その理由と、当時の晋王朝について簡単に記してゐます。
 陶淵明は、年号を使用せず、甲子によつて年を表記した点にも触れられてゐます。

 彼の文世に喧伝する、帰去来の辞に若くはない。古くは文選に収められ、中ごろは宋の謝枋得が文章軌範の最後を飾り、我が国に於いては浅見絅斎の靖献遺言にも載せられて、ひろく読まれて来たものである。序に乙巳の歳十一月とあるによつて推せば、それは晋の安帝の義熙元年、彼が四十一歳の時であつた。彼は家貧しうして田に耕すも自ら給するに足らず、家族を養ふすべが無かつたので人々の勧めに従ひ、彭沢の令となつた。彭沢を選んだのは、家を去る事百里、距離の近きを便なりとした為であるといふ。彼の家は、伝に潯陽柴桑の人なりとあつて、潯陽郡柴桑縣に在つた。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 「帰去来の辞」に対し、私は強い共感を抱いてゐます。今から八年前、島根県出雲市から帰る時、たびたびこの詩を口ずさみ、涙しました。なほ、「帰去来の辞」は、上にもあるやうに浅見絅斎の『靖献遺言』に収められてゐます。講談社学術文庫本の『靖献遺言』にもありますので、併せてお読みいただけたら幸甚です(電子書籍でも読めます)。
 「帰去来の辞」は陶淵明が官を辞し、故郷に帰る時に作つたものです。

 彼は県令に任じて幾何の日数も経ないうちに、既に之をいとふの情を生じた。蓋し本心を枉げ、自然をためて、俗物汚吏の使役に甘んずるに堪へなかつたのである。家にかへれば飢寒の苦み切なるものがあるが、官にあれば己の心を裏切る痛み、一層甚だしきものがある。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 彼のいはゆる「退職理由」ですが、「俗物汚吏の使役に甘んずるに堪えへ」られなかつたのでした。今風にいへば、つまらない仕事とつまらない人と一緒にゐたくなかつたとなりませうか。仕事を辞めれば、生活は厳しくなりますが、公務員を続けて自分を苦しめるのはもつと嫌だつたのでせう。

 彼が辞職を断行した直接の動機となり、かねての志を為すべき機会となつたものは、実にその妹の死であつたのである。
 彼がつくるところの詩文によつて察するに、彼は兄弟同胞の情愛頗る深切であつた。その五十余歳の時に五人の子供に与へた疏といふのは、いはば遺書遺訓と称すべきものであつて、一たび病んでより身漸く衰へ、人々の好意によつて薬石を恵まれてはゐるものの、命脈将に尽きんとするを感じて、儼、俟、份、佚、佟といふ五人の子供に、その生活を安くすべき財産をのこし得ない事をなげき、次の如く之を戒めたのであつた。(中略)
 その子孫に対して兄弟親和し、互に協力して一生を貫くべきを諭した彼は、自分自身頗る兄弟の情愛に厚かつたに相違ない。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 しかし、真の「退職理由」は、妹の死だつたと先生は述べてゐます。
 陶淵明は家族を愛した情の人だつたのです。

田園にかへり自ら耕したのは、ただ清節を守らむが為であつて、真実世を棄て世を忘れたわけでは無い。
   朝に仁義とともに生きば  夕に死すともまた何をか求めむ
とは、彼が貧士を詠じた詩の一節であるが、ここにその凛然たる気概を見る事が出来るであらう。国をわすれ世を棄てないが為に、この気概気節が現れるのであり、道を守り義を思ふが故に、一寸の光陰を惜しみ、一日の再び晨なりがたきを歎いたのである。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 そして、彼は世捨て人のやうに生きてゐるやうに見えて、決して世を忘れたわけではありませんでした。
 私は、支那人の中でも特に陶淵明を尊敬するのは、わが国の橘曙覧先生に似たところを見出すからです。曙覧先生も決して世を捨てた人ではありませんでした。

 先祖の陶侃の影響が此の人に及んでゐる事である。
 彼は家の歴史に深く思を致す人であつた。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 「家の歴史に深く思を致す」。家族愛の原点はここにあり、それは先祖である陶侃の冥々の導きといへませう。

 陶侃が、老荘は浮華、先王の法言にあらず、君子はその衣冠を正しうし、威儀を整ふべしと言つたのは、まさしく此の竹林清談の風潮を排除しようとしたものに相違ない。即ち、彼の重んじたものは、国家であり、礼法であり、歴史であり、秩序であり、事務であり、精勤であつた。しかもそれが兵をひきゐては、向ふところ敵なき勇将であり、民を治めては、路におちたるを拾ふなき徳化の政治家であつた。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 老荘を必ずしも「浮華」と思へませんが、敢へて私はそのことについては述べません。
 陶淵明の先祖である陶侃は老子を排し、儒教に基づく人物、さらにいへば優れた政治家であり勇将であつたことはわかりませう。

 芭蕉は、陶淵明を慕ひました。陶淵明は、「帰去来の辞」を見れば明らかなやうに、情の人でありました。そして、同じく情の人であつた芭蕉も彼を慕つたのでせう。

白楽天

 第六 白楽天は菅公はじめ、大江氏、さらには清少納言や紫式部にも親しまれ、その作品は当時、必須ともいふべきものでした。

 芭蕉が陶淵明を思慕してゐた事は明かである。しかるに芭蕉の文集を見るに、白氏文集を愛読したあとは、頗る顕著であつて、それは陶淵明に言及し、淵明の詩文を引用してゐる場合よりも、遥かに多い。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 陶淵明以上に芭蕉が慕つた存在、それが白楽天でした。それは、その引用によつて明らか、だといひます。

 芭蕉は、菅江両家の詩文や、源氏物語や、朗詠集や、その他古人の引用し訳出してゐるところによつてのみ白氏の詩文に親しみ、わづかに古人の糟粕を嘗めて、之を甘しとしたものでは、決してなかつた。幻住庵の記に、「楽天は五臓の神をやぶり」とあるは、白氏文集思旧の詩によつてものである事は、前に述べたが、この「詩は役す五臓の神」といふ句は、芭蕉自らの文集の中より拾ひ来つたものであらう。私は寡聞にして芭蕉以前に、特に此の句を用ひた文人あるを知らぬ。嵯峨の落柿舎に杖をとどめた時、座右に置いた書物は、「白氏文集、本朝一人一首、世継物語、源氏物語、土佐日記、松葉集」であつたとは、嵯峨日記の明記するところである。して見れば芭蕉は、無雑作に伝統の下流を汲み、怠けて古人の糟粕を嘗めた人ではなく、自ら荊棘を分け、心身を労して、珠玉を採り来つたものといはなければならぬ。芭蕉は門人許六に対し、「まことの俳諧をつたふる時、われ骨髄よりあぶらを出す、必ず必ずあだにおもふ事なかれ」と訓戒したと伝へられるが、骨髄よりあぶらを出すほどの苦心なくては、翁の俳諧は、あの高古深遠の域に到り得なかつたに相違ない。伝統に生くること、豈容易ならんや。慚づべきは我等後人の自ら怠惰にして、更に古人の辛苦をかへりみず、等閑に読み、浅薄に解して以て得たりとしてゐる事である。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 芭蕉の座右には、『白氏文集』がありました。白楽天の章になり、徐々に芭蕉への言及が増えてきましたが、この一節などは注目に値しませう。
 「骨髄よりあぶらを出す」との一節、胸に迫るものがあります。

 凡そ難解を以て孤高として、大声は俚耳に入らずと自負するは、学者の通弊である。私は白氏が此の弊に陥らず、平易の文字を用ひて能く情趣の豊かなる詩を作つた事を偉とせざるを得ない。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 白楽天は平易な文字を心がけました。それはつまり、わかりやすい文章を書くといふことでせうか。そして、この考へは芭蕉の句を知る鍵になりませう。

 ここに注意すべきは、杜甫と楽天と、詩句洗煉の用意、大に異なるものある点である。即ち白氏が平明解しやすからんことを求めたに反し、杜甫は奇警卓抜、人の意表に出たいと願つたのである。それは杜甫自ら「人となり性僻にして佳句に耽る、語、人を驚かさずんば死すともやまず」といつてゐるによつて明かである。それはそれでよいとする。一方の白楽天が、つとめて平明の辞句を選んで人の琴線にふれ、人の共感を求め、多くの読者と共に歌はうとする態度も亦懇切なりとすべきではないか。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 ここでは白楽天と杜甫を比較します。白楽天はわかりやすさにこだはつたのに対し、杜甫はさうではないといふことです。

 芭蕉は俗語を採り、軽みを説いて、重みを離れよと諭し、而して連句を好んで或は五十韻百韻をつらね、又多く歌仙を巻いた。他と心を一つにし、衆と楽みを共にする態度、想察せられるでは無いか。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 ここに芭蕉の「言葉」に対するこだはりが見てとれませう。つまり、俗語を採り、軽みを説いたといふところです。

 同心と知己と共に楽しみ、薄命の美人と共に泣くあたたかい友情を、白楽天はもつてゐた。かくの如き懇切なる愛情は、猜忌嫉妬の心と相反するものである。他を排して自ら取らむとし、人を陥れて自ら登らうとする陋劣の賤情を、彼がもつてゐる筈はない。宜なるかな、白氏文集は、分に安んじて自ら足れりとする晏如たる気分に満ちてゐる。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 白楽天もまた、情の人でした。情の人、それは心の中「ぬくぬくなる」人と言つても良いでせう。

彼は、自らは足るを知り分に安んじて、いかなる境遇に在つても更に泣言をいはず、他に対しては親切であつて、殊に不運薄命の人に同情の涙をそそいだが、その本意はひろく天下の政治を正し、民苦を除いて、上下共に楽しむところに在り、不幸その力及ばなかつたので、あとは自適して終つたのである。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 芭蕉と白楽天は切つても切れぬ関係であることが以上でわかりませう。次回は、いよいよ最終回になります。韓退之、そして最終章の芭蕉の俤を記します。(続)

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