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京都の旅

 いつもお読みいただき、ありがたうございます。玉川可奈子です。

 私の趣味の問題なのですが、平安時代以降から江戸時代までの歴史にあまり興味がなく、その時代の中心地であつた京都はそれほど好きではありません。それに京都はお寺ばかりで面白くない印象が強いのです(江戸時代の国学者並みの仏教嫌ひなのです)が、先日、奈良方面に行くついでに知人と久し振りに行きました。その知人は京都に行つたことがないので、有名なところを巡りました。今回はその時のことを思ひ出して書きました。季節は冬の終はり頃です。

 東京駅から新幹線のぞみ号に乗り約二時間十分。京都駅に到着しました。駅を降りると、多くの人は北口に出ることでせう。そこには、市内巡りに便利な市バス乗り場があり、ランドマークといふべき京都タワーがあります。今回はバスをあまり使はず、前半は徒歩を中心にしました。

東山

蓮華王院

 九時半頃に京都駅を出て、しばらく北東に歩いて行くと、京都国立博物館に至ります。京都国立博物館のすぐ近くには、三十三間堂で知られる蓮華王院があります。今日は、蓮華王院の参拝からはじめます。蓮華王院は、後白河法皇の勅願、平清盛の尽力によつて創建されました。本尊は千手観音坐像です。
 知人は興味深く数多くの仏像を眺めてゐましたが、私はあまり興味がありませんでした。自分の顔に似ている仏像が一体はあるとのことですが、私の顔はあんなにのつぺりとした仏像の顔には似ても似つきません。
 すごくどうでも良いことですが、私が某県にある某女子校に勤めてゐた時、当時の高校二年生で三十三間堂を「さんじゅうさんまどう」と読んだ子がゐました。

蓮華王院

清水寺

 蓮華王院を十時過ぎに出て、智積院の前を通り、北に向かつてしばらく歩いて行くと、清水寺に至ります。寺院の名は浅草の浅草寺なら「せんそうじ」のやうに字音で読むのがほとんどですが、清水寺はなぜか字音ではなく「きよみずでら」と訓で読むのが気になります。何故でせう。清水寺は、坂上田村麻呂が延鎮を開基として建立したさうです。
 さういへば、倉木麻衣の「君と恋のままで終われない いつも夢のままじゃいられない」の歌詞の仲にも「清水寺」がありましたね。

 舞台の裏手には地主神社が鎮守してゐます。境内に置かれた岩と岩の間を目を閉じて完歩すると、恋が叶ふとか。私は中学生の頃から達成してゐますが未だに叶ひません。明らかに客寄せの類です。
 ちやうど若いカップルが、岩(恋占い石)と岩の間を歩いてゐました。しかし、歩いてゐた男性はあらぬ方向に行き、結局完歩することができませんでした。その様子を見て私は思はず、

破局だね

とつぶやきました。聞こえないやうに言つたつもりでしたが、知人とカップルは凍りついてゐました。もちろん知人から後で、

「あんた、何言つてんのよ」

と怒られました(目は笑つてました)。私は、

「大体、神社なのに『縁結び』とか言つて、縁といふ仏教思想に害されてゐるのがいけないのよ」

とさらなる悪態を吐いてゐました。

「だからあんたは結婚できないのよ」

そのやうな悪態が聞こえてきましたが、無視しました。

 気を取り直して、音羽の滝に行きます。正面右側は延命長寿。真ん中は恋愛成就。左端は学業成就とされてゐますが、私はいただいてゐません。かういふのに頼ると、うまくいかなかつた時に、それらのせゐにしてしまふからです。
 また、裁縫中に針を失くした時に、

 清水や 音羽の滝は 絶ゆるとも 失せたる針の 出ぬことは無し 

といふ歌を三回唱へると出てくるといふ俗信があるさうです。

 清水寺を後にして三年坂(産寧坂)を下りました。知人に、

「ちよつとここで転んでみてよ」

と言つたところ、さすがにそのことは知つてゐたのか、

「まだ死にたくないよ」

と返されました。

 お昼時が近付いてきたので、道の途中にあつたお店で京都名物にしんそばをいただきました。

清水寺
清水寺の舞台
にしんそば

京都霊山護国神社

 しばらく歩いて行くと、高台寺。ではなく、京都霊山護国神社に至ります。ここは、慶応四年五月十日から維新の直前までに国事に奔走して倒れた護国の英霊をお祀りし、また、さうした方々のお墓(霊山墓地)があります。靖国神社よりも古い点が注目されます。中岡慎太郎や、天誅組の吉村虎太郎のお墓で知られてゐます。その吉村虎太郎の辞世、

 吉野山 風に乱るる もみぢ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ

は、ますらをぶりの見事な歌です。福田定一といふつまらない売文家の小説の影響で坂本龍馬の評価が無駄に高いのは気になりますが、彼のお墓も中岡慎太郎の横にあります。
 また、パール判事(ラダ・ビノード・パール)の顕彰碑もあります。パール判事は東京裁判において全員無罪の判決書(「パール判決書」)で知られてゐます。国民必読の書だと思つてゐるのは、私だけでせうか。
 京都に来たら、必ず訪ねたい場所です。
 護国神社の隣には、霊山歴史館があり、幕末多難の時代について学ぶことができます。今回は立ち寄らず、護国の英霊に感謝の祈りを捧げ、山を降り西に歩きました。

六道珍皇寺

 しばらく歩き、裏道に入ると、六道珍皇寺に至ります。ここは、小野篁が地獄と行き来した井戸で知られてゐます。夜は閻魔大王のもとで裁判の補佐をしたとか。いくらなんでもな話しですね。
 小野篁は当時における天才の一人で、漢詩にも長じてゐました。「百人一首」の

 海の原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣り船

で知られてゐませう。とても巧みな歌だと思ひます。

六道珍皇寺
奥に見える井戸がそれ

六波羅蜜寺

 六道珍皇寺から少し歩くと、六波羅蜜寺に至ります。ここは、応和三年(963)に空也によつて創建されたと伝へられてゐます。小さなお寺ですが、宝物館には、「南無阿弥陀仏」を唱へると一音一音が仏となつたといふ空也上人像や、平清盛像などが保存されてゐます。平清盛像は、さすがは天下人といふやうな眼光炯々、生きた目をしてゐます。

 六波羅蜜寺の近くには、有名な幽霊の子育飴のお店があります。小さな古いお店で、飴だけを扱つてゐるお店です。詳細は以下の動画をご覧ください。

幽霊子育飴

建仁寺

 ここからさらに少しだけ北に行くと、建仁寺に着きます。いふまでもなく、臨済宗の本山であり、『喫茶養生記』で知られる栄西が開山しました。蘭渓道隆が住持の時に、禅寺になつたやうです。

 ここは、寛永年間頃に作成された俵屋宗達の最高傑作、「風神雷神図屏風」で知られてゐます。レプリカが飾られてゐます(実物は京都国立博物館に寄託されてゐます)。
 また、豊臣秀吉をして「我が軍法の師」と言はしめた海北綱親(浅井長政の臣)の子である海北友松の筆による「雲龍図」も知られてゐます。

建仁寺
風神雷神図屏風
雲龍図

八坂神社

 建仁寺を後にしてから、祇園の町を歩き、八坂神社を参拝します。八坂神社の御祭神は古くは牛頭天王でしたが、今では素戔嗚尊です。祇園祭は、八坂神社の祭礼で知られてゐますね。八坂神社の近くには、桜の名所である円山公園があります。京都の桜といへば、倉木麻衣の「Time after time〜花舞う街で」が連想されますね。
 私にしきしまの道を教へてくださる某先生は、「Time after time〜花舞う街で」の歌詞のやうな恋愛をしたさうです。その方を八年間、一人で思ひ続けたとか。素敵です。

 八坂神社からさらに北に少しだけ歩くと、一澤信三郎本店です。一澤家の骨肉の争ひは、よく知られてゐますね…。ある京都人は、「京都の人は古い方が好きだから一澤帆布の方が好み」といふことを言つてましたが、どうでせう。信じ難いですね。
 私の愛用の鞄は、いふまでもなく一澤信三郎帆布のそれです。

嵐山

高山彦九郎先生

 鞄を見た後に、少し歩いて三条大橋のところまで行くと、そこには高山彦九郎正之先生の皇居望拝之像があります。橘曙覧先生の御歌が説明文に刻まれてゐます。

 大御門 その方向きて 橋の上に 頂根突きけむ 真心たふと

 さすがは曙覧先生です。高山彦九郎先生の志をよく理解したものといへませう。
 歌碑には先生の次の歌が刻まれてゐます。

 われをわれと しろしめすぞや 皇の 玉の御声の かかる嬉しさ

 高山彦九郎先生といへば、上野国出身で、勤皇の志士の魁の如き人物です。『山陵誌』の蒲生君平、『海国兵談』の林子平らと共に寛政の三奇人と呼ばれました。水戸の藤田幽谷先生との交流も知られてゐます、先生は若き日の幽谷先生を高く評価されてゐたことは、その日記によつて知られてゐます。詳細に記録された彼の日記は、地誌的な価値も有してゐます。最期は、久留米で謎の割腹を遂げられました。享年四十六歳でした。
 東武伊勢崎線の細谷駅から徒歩十分ほどのところに、先生の記念館があります。小さな記念館ですが、行く価値はあります。アクセスには、「ふらっと両毛東武フリーパス」が便利です。

高山彦九郎先先生 皇居望拝之像
高山彦九郎先生歌碑

嵐山

 三条京阪バス停からさらにバスを乗り継いで、嵐山に行きます。四十分の乗車時間です。嵐山といへば、多くの人は渡月橋を思ひ浮かべませう。「渡月橋」といへば倉木麻衣の歌で知られてゐますが、古い人には長渕剛のデビュー曲である「雨の嵐山」の方が有名でせうか。

 倉木麻衣の曲はとても素敵なのですが、「唐紅に染まる渡月橋」といふ表現がやや意味不明です。元になつたのは恐らく、

 ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 唐紅ゐに 水くくるとは

といふ在原業平の歌でせうが、川が紅葉によつて唐紅に水くくるのに対し、倉木麻衣の歌は橋が唐紅に染まるといふのは少しわかりづらいのです。まあ、綺麗だから良いか。

 すごくどうでも良いのですが、私にしきしまの道を教へてくださつてゐる先生は、倉木麻衣のやうに着物の似合ふ方から「その歌を送られたら心を寄せない人はゐないから、在原業平の生まれ変はり」と言はれて有頂天になつてました。わかる気もします。

天竜寺

 渡月橋を見て、天竜寺を拝観しました。天竜寺は夢窓疎石の開山で、足利高氏が後醍醐天皇の冥福を祈るために建立しました。資金を得るために、天竜寺船を元に派遣してゐたことはよく知られてゐます。

天竜寺

 嵐山は観光客が多く、さうした人が立ち寄りさうな店もたくさんあります。その中でも、みっふぃー桜きっちんで買ひ物をしました。うさこちゃんは可愛いですね。

みっふぃー桜きっちん
渡月橋

 陽も暮れてきました。嵐山から再びバスに乗り京都駅に帰り、ここから近鉄に乗り換へ奈良方面に向かひました。いつもなら、京都タワーの地下にある銭湯に寄るのですが、廃業してしまひました。

夜の京都タワー

 読者の皆さんにとつて、京都といへば、広隆寺の弥勒菩薩像でせうか。それとも栂尾の高山寺でせうか。それとも御所でせうか。人それぞれでせう。中には金閣といふ人もゐるかも知れませんね。あまり興味がないところでも、色々調べて来てみると楽しいものですね。次は二十二社を時間をかけて巡つてみたいものです(むかし、「二十二社を全て書きなさい」、といふ課題を出したナア)。

 最後までお読みいただき、ありがたうございました。

近鉄特急

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