玉川可奈子の秋休み 東海編
いつもお読みいただき、ありがたうございます。玉川可奈子です。
三篇にわたる秋休み、これで完結します。どうか、最後までお楽しみください。
ところで、JR線は全て完乗し、今は私鉄と第三セクターの全線完乗を目指してゐるのですが、達成したことを、何によつて証明するのかを問はれたらどうするか。
ある鉄ヲタの人から、
「路線の端と端の駅名板の前で自撮りをするのが証拠になる」
といふ話を聞いたことがありますが、それとてインチキはできます。
私は自己申告で良いと思つてゐます。疏明資料だなんだといふのは、仕事だけで十分です。
ここまで、枕。
名古屋にて
さて、前回からの続きで、ただ名古屋駅に向かつたのかといふとさうではありません。
実は、名古屋で「京都の旅」を共にめぐつた人と待ち合はせをしてゐました。
私の乗り潰し旅に付き合ふなんて奇特な人です。念の為、女性です。
待ち合はせの時間まで余裕があつたので、東海交通事業城北線に乗つてきました。真つ暗な車窓でしたが、都市の景色が見えました。
二十二時頃に名駅で合流し、なんでも良いから名古屋飯を食べようといふことで、世界の山ちやんへ行きました。世界の山ちやん、東京にもありますが、マア気分の問題ですね。
あんかけスパゲティもありましたが、そんなに美味しくなく、むしろ台湾焼きそばがすごく美味しくて辛いのに二人でバクバク食べてゐました。
そして、二日前に散々バカにしてゐたアパホテルに泊まりました。
翌日…。
アパホテルの朝風呂を楽しみました。
私どもの泊まつてゐたアパホテルの大浴場は、天然温泉。茶色がかつた湯で、よくあたたまりました。サウナも付いてゐましたが、それほど長く入りませんでした。
ところで露天風呂には、「虫さんや枯れ葉さんもお風呂が好きなので、入つてきたらやさしくすくつてあげてください」と書いてあり、優しい表現に心の中もぬくぬくになりました。
ホテルを出て、名古屋駅に行きました。
前にも書きましたが、私、名駅は嫌ひです。何故でせうか、
「 人 が 多 過 ぎ る か ら 」
です。
いつものカフェで小倉トーストを食べやうとしたら、早くも行列ができてをり諦めました。
あんかけスパゲティ屋さんも十一時からです。
仕方がなく、きしめんを食べることにしました。
食べ終はつて、お店の外に出ると、ラーメン二郎を凌駕する行列ができてゐました。
お土産屋さんもすごい混雑で、イラついてきたので、早くもホームに行くことにしました。
明知鉄道
特急しなの
まづは、特急しなの9号に乗り多治見駅まで行きます。
隣のホームにはひだ7号が停まつてゐましたが、なんと大雨の影響で急に運休になつたといふ放送が流れました。確かに、ホームはザアザアと雨が降つてゐるのが見えますが。
十一時ちやうど。しなの9号は長野駅を出発しました。
出発して間もなく、大好きなワイドビューチャイムが流れます。思はず泣きさうになりましたが、堪へました。
ワイドビューチャイムも聴ける車両が少なくなりました。そして、このまま行けばいつか全く聴けなくなる日が来るでせう。JR東海の関係者の方で、私のnoteを見てゐてくれてゐる方がをられたら、どうかワイドビューチャイムを後の世までに残してください。心からお願いいたします。
中央線にて
わづか二十三分の乗車で多治見駅に着きました。ここから中央線の快速に乗り換へます。
景色に緑が多くなり、車窓が楽しくなります。
多治見駅の次の土岐市駅は、橋本真也の出身地です。「爆勝宣言」に胸熱な人は多いでせう。私もさうです。
しかし、この人。クズなエピソード満載です。それでも佐々木健介のやうな笑へないクズよりマシです。
友人は、携帯を見てゐます。
瑞浪は、麗沢瑞浪高校があります。一時期、子供が生まれたらこの学校に入れたいと思つてゐました。私の友人にも麗沢瑞浪高校の出身の人がゐます。
瑞浪駅から釜戸駅間はよい景色で落ち着きます。友人も車窓を眺めてゐます。
恵那駅
目的の恵那駅に着きました。
けふはここから明知鉄道に乗ります。
少し時間があつたので、駅の隣にあるえなてらすを眺めてゐました。地域のアンテナショップのやうなお店です。
駅でフリーきつぷを買ひました。私は栗の形をしたものを、友人は団扇の形をしたフリーきつぷを買つてゐました。
あけてつ本舗(グッズ売り場)に手ぬぐひタオルが売つてゐたので、衝動買ひしたのですが、なんとMOKUタオルを作るコンテックス社製です。
これは嬉しいです。
明智の旅
私どもの乗る列車は、急行大正ロマン号です。
座席はロングシートです。食堂車を併結してゐます。
食堂車は予約が必要です。
覗いてみると、お弁当が並んでゐます。
十二時二十五分、恵那駅を出発しました。
すぐに木々の中を走ります。
食堂車を覗いてみると、乗つてゐる人たちが楽しそうに、美味しさうな食事を囲んでゐます。
列車は勾配がキツいのか、のんびり進みます。車窓はまさに田舎、といふ感じです。ゆつくりですが、徐々に高度を上げて行きます。
十二時三十九分、勾配三十三‰の飯沼駅を通過して行きました。看板によると日本一の勾配の駅ださうです(今では日本で二番目で、一番は昨日乗つた京阪京津線の大谷駅ださうです)。
駅でボーイスカウトの少年らが、お昼ご飯を食べてゐました。
しばらく走ると下りになつたのか、列車の速度が上がりました。
峠を一つ越えて、阿木駅に着きました。
阿木駅は木造の素敵な駅舎です。
シクラメンの産地ださうです。ちなみに、布施明の有名な歌。歌は抜群に上手いのですが、仮名遣ひが間違つてゐます。正しくは「かをり」です。
どうでも良いのですが、職場の年配のパートさんと布施明と玉置浩二はどちらが上手いか論争を先日しました。
阿木駅を出ると、列車は再び坂を登りはじめました。軽い勾配でしたが、かういふのが続くと列車も大変さうです。
友人は景色を見ながら、
「山辺の道に似てゐるね」
と言ひます。
確かにさうですね。
車内で、えなてらすで買つた大きなどら焼きを二人でいただきました。
中に生クリームが入つて美味しいのですが、なかなか減りませんし、喉も乾きます。
秋のみのりも豊かに、黄金色の景色が私どもの目を楽しませてくれます。
極楽駅に着きました。極楽感はありませんが、近くに極楽寺といふのがあるさうです。
次の岩村駅に着きました。ここで、地域のおぢさん連中がたくさん乗つてきて、車内がにぎやかになりました。
ところで、岩村出身の下田歌子を初めて知りました。五歳で歌を作つた神童だつたとか…小学五年生で『万葉集』に親しみ、やまとうたを志して三十年を超えた程度の玉川では勝てません。
他にも『言志録』の著者、佐藤一斎も岩村の人とのことです。
岩村駅を出発して、またゆつくりと登つて行きます。地域のおぢさん連中も、静かに車窓を眺めてゐます。
ゆつくりと勾配を降りたところで、十三時四分、花白温泉駅に着きました。ラジウム温泉の温泉施設が駅の目の前にあります。
田園風景を眺めながら、山岡駅に着きました。駅前にかんてんかんと寒天を用ゐたレストランがあります。ここは寒天が名物ださうです。
次の野志駅に向けて、再び勾配を登つて行きます。
ゆつくりですが、着実に、峠を超え、野志駅を通過して行きました。
そして、終点の明智駅に着きました。
明知鉄道、完乗です。
駅前に明智光秀ゆかりの地といふ碑がありますが、きんかん頭に興味がありません。教養人だつたさうですが。『大日本史』が後小松天皇で終はつてゐなければ、叛臣伝にでも書かれたでせう。まことに、『大日本史』は恐ろしい。
折り返して恵那駅に帰ります。
恵那駅で列車を待つてゐる時、友人は団扇フリーきつぷをせはしなくパタパタしてゐました。
帰りの列車は各駅停車です。明智駅を出発して間もなく、友人は寝てしまひました。
車内は、先ほどの食堂車の客も乗せてゐるのか混んでゐます。
程よい揺れと涼しさも手伝つて、私も眠くなりました。
岩村駅で写真を撮るために起きて以降、しばらく私も寝てしまひ、気付いたら恵那駅に着く直前でした。
再び中央線
恵那駅から中央線で高蔵寺駅に向かひます。
途中、古虎渓駅、常光寺駅の景色に息を呑みました。
高蔵寺駅から次は愛知環状鉄道に乗ります。何故、この路線を第三セクターにしたのかわからない不思議な路線です。沿線には多くの学校や、トヨタ自動車関係の企業があり、どう考へても赤字要素が少ないのです。
愛知環状鉄道の完乗
十五時五十九分、愛知環状鉄道は発車しました。二両編成の車内はロングシートで、乗客はまばらです。ロングシートといふわけではありませんが、写真少なめです。
出発してすぐの景色は緑が色濃いものでした。日が西に沈みつつある中、瀬戸市駅に着きました。友人は早くも寝てゐます。初めて瀬戸市の景色を見ました。次は名鉄完乗の際に来ることでせう。
瀬戸市はかつて職場で一緖だつた人が今、この地で塾をやつてゐます。「自分にやりたいことは何としても実行したい!」といふ意志の強い人で、その意志を貫く行動力もありますが、傲慢なところもあり、少なからず誤解もされてゐました。本人は「謙虚でなくてはならない」といつも言つてゐましたが、よくいへば自分に言ひ聞かせてゐたのでせう。
お世話になつた方ですが、私から見ても、その人は全く謙虚ではありませんでした。それに、もう住む世界も違ひます。
山口駅のあたりからの景色はベッドタウンのやうでありました。次の八草駅からはリニモが走つてゐます。これもいつか乗りに行くでせう。愛知工大の最寄り駅です。
篠原と書いて、ささばらと読む篠原駅のあたりは完全に田舎です。ここで、反対側から来た列車とすれ違ひました。次の保見駅も目の前は田んぼです。四郷駅では駅前に数軒のマンションが立ち並び、にはかに様相が変はりました。そして愛環梅坪駅は遠くにあしひきの山々が見えるものの、前の駅にくらべたらかなり拓けてゐます。
新豊田駅に着きました。さすがに都会で、駅前はかなり発展してゐます。これだけの立地を手放すなんて、旧国鉄はもつたいないことをしたものです。しかし、新豊田駅を離れると、再びベッドタウンになります。
三河豊田駅に着く直前、大きな工場が見えてきました。トヨタ自動車本社工場です。矯正展で尋ねたことがあります府中刑務所の工場が小さく見えます。
「そりやあ自動車の工場だから」
といつの間にか起きてゐた友人が驚く私につぶやきます。
車窓に見える多くの家が、トヨタ自動車の社員の家に見えてきます。末野原駅に着く前には、茶畑が見えてきました。末野原駅を出ると、再び田んぼが現れ田舎に戻されます。永覚と書いてえかくと読む永覚駅は、地方のローカル線の駅のやうです。
大門駅に向かふ途中、川を渡りました。
この間、仕事猫グッズの話しをしてゐました。話しに夢中になつてゐて、中岡崎駅前の岡崎城をチラ見しただけでした。
そして、終点の岡崎駅に着きました。
愛知環状鉄道、完乗です。洒落ではありません。
暗闇の天浜線
岡崎駅から東海道線に乗り換へ、豊橋駅を経由して新所原駅に向かひます。
三河三谷駅を通過したあたりで、車窓に海が見えます。
途中、豊橋駅でいなり寿司を買はうとしました。四分間のわづかな時間、階段を駆け登り、売店に向かひましたが、売り切れでした。
仕方がないので、浜松駅行きの列車に乗ります。二つ目の新所原駅で降り、急いで天竜浜名湖鉄道のホームへ行きました。
可愛い花のリレー・プロジェクトの内装が施された車両の進行方向右側に座りました。
これで終点の掛川駅まで行きます。
この路線はかつて、東海道本線が敵の攻撃で不通になつた際のバイパスとして建設されました。
十八時七分、日が暮れて薄暗くなる中、新所原駅を出発しました。
日中ならば、以下の写真のやうな景色が見える筈ですが、けふは薄闇の中、月明かりの下、まばらな民家と木々が見えるだけです。
知波田駅を出発して尾奈駅に向かふ途中、浜名湖が見え始めました。まるで、夜の海みたいです。
友人は、窓にiPhoneをくつ付けて、写真を撮る機会をうかがつてゐますが、好機は中々訪れません。次第に空も暗くなつて行きます。
尾奈駅からしばらくいはゆる奥浜名湖、すなはち猪鼻湖が見えます。暗がりではつきりとは見えませんが、確かにそこは水辺です。三ヶ日駅といへば、先土器時代の日本人、三ヶ日人の骨が出たところです。
都筑駅に着いたころには、最早、景色は完全に見えなくなりました。
いにしへ人が、
遠江 稲佐細江の みをつくし 我をたのめて あさましものを (『万葉集』巻十四・三四二九)
と詠んだ、寸座駅から西気賀駅から見える稲佐細江をはつきりと見ることは叶ひませんでしたが、闇の中からいにしへ人の光を感じることはできました。
岡地駅の北には井伊谷といふ地名があります。井伊谷はかつて私の尊敬する宗良親王が身を寄せられた地で、親王をお祀りする井伊谷宮が鎮座してゐます。いつか、行つてみたい場所です。
宗良親王は、御歌を作る才にも長けてをられ、官軍を励まされた、
君がため 世のため何か 惜しからむ 捨てて甲斐ある 命なりせば
の御歌はよく知られてゐます。
歌集の『季花集』は私が愛読する歌集であり、親王御自ら撰ばれた准勅撰和歌集の『新葉和歌集』は敬愛する歌集です。
さて、暗がりの車窓を友人と二人、窓に顔を付けるやうに眺めてゐましたが、浜名湖を離れてからは、銘々好きなことをしてゐました。赤福もいただきました。
途中、西鹿島駅から浜松駅まで遠州鉄道を往復する予定でしたが、けふはしませんでした。次の宿題とします。
約二時間の乗車を経て、二十時十分。掛川駅に着きました。
ところで、掛川には掛川花鳥園があり、とても素敵なところで癒されます。行きたいのですが、乗り潰しが優先になつてゐることから中々行く機会に恵まれません。
掛川駅から、こだま750系に乗り東京へ帰ります。
イヤー、疲れました。
友人に旅の感想を聞いてみたところ、
「疲れた、眠い」
とのことです。私は充実感でいつぱいでしたが…。
これでしばらく旅は…と思ひきや、実は来週は和歌山に行きます。まだまだ私の鉄道乗り潰し旅は続きます。
最後まで御読みいただき、ありがたうございました。
ちんぺーさんの訃報、まことに悲しきものでありました。
今、「風の暦」を聴くと、泣きさうです。
谷村新司挽歌
なぐさもる その歌声は とこしへに 聞こえぬものと なりにけるかも