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子どもにしか見えないもの

「子どもにしか見えないもの」は、存在する。わたしは確信している。

別に、オカルトとかスピリチュアルな話ではない。

成人と比べ、成長途中の子どもの視野は狭いという。物理的にも視点が低い。そもそも、実際に見えているものが大人とは違うのだ。

そういった視点の差に加え、アンテナの張り方の違いもある。
たとえば、子どもと生活するようになって、世の中にはこんなにもどこかしこにアンパンマングッズが存在するのかと驚いた。菓子類、ショッピングカート、ラッピング自販機…あらゆる場所で奴らは幅を利かせている。それに目ざとく気づく我が子たち。

スーパーやショッピングモールには、子どもの目線に合わせて幼児向け商品やガチャガチャが陳列されていて、思いがけぬ刺客として足止めをくらう事となる。親はその位置を予め把握、回避せねばならない。そんな事、誰も教えてはくれなかった。

駐車場で、娘が突然、ピカチューだ!と言い出す。何の事かと思ったら、向かいに停めている車のダッシュボードに小さなぬいぐるみが置いてある。「baby in car」のステッカーの場合だってある。よくもまぁ、見つけるものだ。

どれもこれも、わたしには「見えない」。

そういう意味で、やはり「子どもにしか見えないもの」というのは確かに存在する。


親になって改めて見た、スタジオジブリ「となりのトトロ」の衝撃は凄まじかった。恐らく世の親御さんたちの同意を得られるはずだが、幼いメイちゃんが、我が子にしか見えない。表情、動き、言葉や行動パターンが、幼児のリアルなそれである。子どもの生態を熟知した上で描かれている。だから、思わず親心で見てしまう。

そしてそこには、製作陣の、子どもへの深い愛情と共に、敬意を感じる。「子どもが好きな人」というより、「子どもが見ている世界が好きな人」が描いた作品なのだろう、と思う。だからこそ、サツキとメイをはじめ登場する子ども達はあんなにもいきいきと輝いてみえるのだ。


大人だって、かつては誰しも見ていたであろう景色。けれどもう見えなくなってしまった世界。
きっと、その光景を忘れることがなかった人たちだからこそ創り出せた映画なのだ。「忘れてしまった」側の我々大人は、「あの世界」への憧れや懐旧の念も相まって、胸がいっぱいになってしまう。
今まさに、「あの世界」を見ているであろう子ども達を、羨ましいとさえ思う。


我が子達を見ていると、いわゆる「想像の世界」で遊んでいる姿に感心する。時には幼稚園の先生になり、時には誇り高き戦士になり…、常に様々な世界線を生きている。その時彼女らの目には、その世界が「見えている」のだ。

子どもには「現実世界」と「想像・夢の世界」の境界がないのだろうな、と感じていた。
しかし、その表情を見ていてふとある考えが浮かんだ。あぁこの子達には、「夢と現実の境界がない」のではない。「この現実そのものが、夢の世界なのだ」、と。

気づけば目の前に妖精がいる。自分がうんとお姉さんになる。お気に入りのぬいぐるみと会話する。手からビームが出る。…これらは全て、彼女たちにとって、目の前にある現実なのだ。

そう思い至った時、なんだろう、目の前の小さな人間たちが、凄まじく崇高な存在に感じられた。

わたしと娘たちでは、この世界の捉え方がまるで違うのだ。わたしには見えない聞こえないあらゆるものを、今この瞬間、この子達は感じているのだ。わたしには到底届かない世界を生きているのだ、と。胸が震えた。


「子どもの時にだけあなたに訪れる、不思議な出会い」というのは、先述の「となりのトトロ」のテーマソングの、印象的なフレーズだ。きっと大人の想像を超えた世界が、子ども達の目の前には広がっている。だからやはり、「トトロ(またはそれに準ずるもの)」は確かにいるのだろうし、かつて子どもだったわたしも、きっとどこかで出会っているのだろう。

娘たちには、今見えている世界…今しか見えない自分だけの世界を、もっともっと広げてほしい。その世界が、自由で健やかでたくさんの出会いに溢れる場所であることを、切に祈る。

公園にあるハンモック遊具をベッドだと言って寝転がり、お家ごっこをしている娘たちを見て思う。
今この子達の目には、何が見えているのだろう。ほんの少しでいいから、あなた達のその澄んだ瞳に映る世界を、わたしも覗いてみたいのだ。

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