発想の転換と私
こんにちは。きっかけアクセサリー作家の、音海奏乃です。
今日は金曜日。思ったことや感じたことを、かなのの言葉でつづっていく、かなのわーずの日。
発想の転換、という言葉はよく聞きますよね。ヒット商品や企画を作った人の話だけではなく、ネガティブなことがあったとしても、ポジティブにとらえて前を向いて歩こう、という場面でも使われます。
私と発想の転換はどのように付き合ってきたのか、振り返ってみました。
それは、突然やってきた
今、私の生活の中心は介護と、家事です。突然やってきたそれらが生活の中心に陣取ってから、3年以上がたったので、落ち着いて振り返ることができますが、渦中の私は発想の転換などと言っている暇もありませんでした。
聞きなれない言葉、見慣れない作業。注意することもいっぱいあって、それはもうてんやわんや。少し目を離している間に転倒して、怪我でもしたら大変だというので、しばらくはお風呂もおちおち入れなかった。自分のやりたいことや段取りもそっちのけで、いついかなる時も要介護者を優先しなくてはいけない。「なんで自分がこんな目にあうんだろう」という場面が何度もあり、そのたびに涙を流しました。
家族も、それぞれ忙しいので、100%私の話を聞いている時間なんてありません。それに当時は「寝たきりじゃないのでマシですね」なんて言い出すケアマネージャーだったもので、そういう人に相談する気も起きませんでした。(寝たきりの人の介護が大変なのは重々承知していますが、それはそれ、こちらにはこちらの大変さがあるのです。本来は比べるべきではない部分です。)
毎日、自分のことは我慢して介護をしているのに、要介護者からは「ばかやろう」と言われたり、物を投げられたり、怒号を浴びせられたり……。こんな状況では、自分の幸せや将来のことなんて考えられない状況でした。
斜め上を、見る
つらいことには変わらない介護ですが、それでもつらさを70%位にできたのには、一人の人との出会いがありました。
その人と出会ったときは、まだわからないその人の言動に警戒して、彼の言葉も否定的にとらえていました。褒められても、そんなの当たり前だ、というように。けれど、しばらくしたある日、彼との会話から"みんなが必ずしもそうではない"ということに気が付きました。
気が利く、とか、優しい、とか。介護していれば当たり前。そう思っていたのに、それができる人と、難しい人がいると知ったのです。小さなころから人より出来て当たり前、気が利いて当然。そう育ってきた私にとっては、それが世界のすべてだと勘違いしていたのです。それからというもの、自分の視点だけではなく、斜め上を向けるような、複数の視点で物事を見ることができるようになりました。
例えば、同い年の友人は、会社員として働いている。一方で私は無職で介護をしている。それだけみると、自分がなんだかすごく切ない立場にいるように見えます。しかし、私はその分、上司や部下など、人間関係に悩まなくていい。満員の電車にかけ乗りして、お昼ご飯を食べそびれることもない。"自分のタイミングを大切にしたい"という部分では、少しいいところもあるのです。
それに、今から介護をしていることで、おおよその流れなどはわかります。だから家族や親せきに何かあっても、状況判断を冷静にできる。もっと言えば、親族中探しても誰もやっていないことを経験しているんだ、と思えば、なんとなく自信になりました。だって、右も左もわからない状態から、ここまで毎日、この状況でやり続けているんだもの。
そう、発想の転換をしたことで、上を向いては歩けなくても、斜め上くらいは、向けるようになりました。
しかし、傷までは消せない
いくら発想の転換で斜め上を向いても、出来ないことが一つだけあります。それは、"ついた傷を消し去ること"です。
車を例にお話ししますね。あなたの車は汚れてしまって、かわいそうな印象です。そのため、洗車をしてピカピカに磨き上げました。車は、汚れていたことでつらい気持ちだったとして、きれいにしてもらったら、少しは自信が持てますよね。まるで新車のようにピカピカにした車は、よく見ると傷がついてしまっていました。あなたは、どうしますか?
おそらくこの場合、多くの方は修理に出す、あるいは自分で直すを選ぶと思います。通常の洗車を続けて傷をきれいにできないことは、わかりきっていることですよね。これと一緒で、一度傷ついた心は、上を向くように発想の転換をしても、その傷は直らないのです。
介護をしていることで、友人が体験していないことを先取りしている、とか、この経験をいつか誰かのために書いておこう、とか、前向きにとらえることはできます。しかし、介護しているのも人です。暴言や暴力など、自分に危険が及んだ時の記憶は鮮明です。ちょっとでもその時に似た動きをされれば、「また、自分の身に危険が起こるかもしれない」と恐れ、悲しみ、怒りの気持ちさえ持ちます。その傷は、記憶でも抹消しない限り何度でもよみがえります。
自分に原因があることならやむをえません。十分に冷まさず熱いものを口に入れられたら、自分も怒るでしょうから。しかし、いくら要介護者が記憶に難ありといっても、「何のためにこの行動をしてもらうか」を理解されず、ただ一時の感情で傷つけられるのは、違うと思うのです。まぁ、ここで言ってもそれは何の解決にもならないのですが、とにかくそうしてついた傷は、忘れたふりしてまた介護に向かい合っても、消えることはないのです。
それでも、生き抜くしかないから
前向きに、ポジティブに。そういう言葉は、余裕がない人には酷な言葉になります。前向きでいないといけないのか、と思い込んでしまう場合さえあります。でも、余裕がなくたって、自分たちは自分たちなりに、必死にポジティブに近づこうとしています。
心に傷を受けても、拒否反応のようなものが出ても、介護を代われる人はいません。いくら支援があっても、実は条件があり、そこに当てはまらない場合は利用できないのです。受け止めてくれるはずの網でさえ、目が大きければこぼれてしまう世の中なのです。
それでも、生きていたい。自分の人生を、生きたい。その思いをいつか叶えるために、今日も斜め上を向いています。見通しなんて、全くありません。自分が自分らしい人生を送る前に、こちらが要介護者になる可能性だってあります。結婚したくても、できないかもしれない。それはそれで、不倫や浮気などにエネルギーをとられなくていいかも。人生は何が起こるかわからないので、そんな風に考えながら、せめて斜め上を見て乗り越えていくしかないのです。そうでもしないと、押しつぶされてしまうから。
今回は、発想の転換について考えてみました。が、ちょっと介護に関する内容が多めで暗い印象になってしまいましたね。でも、それが現実。逃げることのできない現実に、正面から受け止めなくてはいけないことも、生きていればあるのです。
皆さんは、うまく発想の転換を利用して、少しでも明るいほうに目を向けられるようになると、人生に楽しさが生まれると思いますよ。気が向いたら、一つのものをいろいろな側面から見る練習をしてみてくださいね。
音海奏乃でした。
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