「人生」という言葉を、「物語」に置き換えてみてください
人は言葉で世界を認知する。
その言葉の持つイメージや印象は人それぞれで、どんな捉え方をするかで「個性」や「その人らしさ」が決まっているとさえ思う。
私は【人生は物語のようなものだ】と捉えている。
辛かった学生時代は「そう思わなきゃ生きていられない」と思っていたし、社会人になってからは「ハッピーエンドじゃなきゃやってられない」と思っていた。
つまり、「人生」という言葉をそのまま受け取ってしまうと、重すぎて扱いきれなかった。
昔から「これはKanaという人間の一つの物語だ」と思うと、一歩引いて自分を客観視することができた。
「物語なら、今辛いのは必要な場面」とか「ハッピーエンドが約束されているなら頑張れる」そうやって自分の人生とうまく距離をとってきた。
その時々はそのことが起きた意味や理由はわからない。
でも長い物語の中で考えてみると、いつか気づく時が来る。
そこで、今日は
「人生」という言葉を全て「物語」に置き換えてみる
ということについて書いてみたい。
こんにちは!Kanaです。
「人生を考える」というのは、人間の命題のようになっている気がする。
よりよく生きるとは?
幸せとは?
何のために生きるのか?
こうした問いとともに、「人生」とは壮大な言葉に聞こえることもある。
一方で、「人生オワタ」のようにスラング的に使えば少しは気楽になるのかもしれない。
「人生の意味」を考えないで済むのなら、それもそれで幸せな気がする。
お人形のように、はたまた何の疑問も抱かずに幸せに生きられるなら、それはそれでいいだろう。
では、人生を物語として捉えるとどうなるか?
今書いた文章を少し意訳しながら「人生」を「物語」に変えてみる。
少し印象が変わると思うのだが、どうだろう?
「物語を考える」というのは、人間に与えられた使命かもしれない。
よりよい物語とは?
幸せな物語とは?
何のために物語があるのか?
こうした問いとともに、「物語」とは壮大な言葉に聞こえることもある。
一方で、「これはフィクションです」のように言ってしまえば、気楽な言葉としても使えるのかもしれない。
「物語の意味」を考えないで済む監督や役者なら、それもそれで幸せな気がする。
お人形のように、はたまた何の疑問も抱かずに幸せに役を演じるだけなら、それはそれでいいだろう。
どうだろう?
どんな風に思ったか少し考えてみてほしい。
私は人生を物語のように捉えたことで、現実との距離感、自分との距離感が上手になった。
常に<実際の自分>と、『物語を生きている自分』がいるようなそんな気分になり、それは
<実際の社会生活をしている自分>と
『ジャーナリングというノートに書き出された自分』のようでもあった。
だから私はいつも<書く自分>と『読む自分』がいたし、
物語だと思えば<辛いこと、その時は意味がわからないこと>も『いつか意味のわかること』になった。
そうして
人生に無駄なことはないと思えるようになったし、
物語ならば、自分が主人公となって好きにやってやろうという主体性を取り戻すことにもなった。
誰かが書いた物語に、
脇役として出演させられるだけの
人物でいいんだろうか?
人生が自分の物語であるという自覚がないということは、悪く言えば「社会に消費される人生」であり、「都合よく配役されてしまう人」だと思った。
怖かった。
死ぬ時に絶対後悔すると思った。
私の物語、これからどうしよう?
そこからはあえて人生と使うことをやめた。
「私の人生、どうしよう」と言うとすごく受動的でコントロールできない怪物に見えた。
しかし、「私の物語、どうしよう」と言うと、すごく能動的で自分でコントロールできることもあるんじゃないかと希望が持てた。
生きていく上で、希望は大切だ。
自分の物語に希望を持ちたいと思った。
自分に期待できるということは、自己肯定感や自己効力感にも影響を与える。
もちろん思い通りにいかないこと、コントロールできないことはたくさんある。
それでも、自分でどうにかできる部分もあるし、全ては捉え方次第だとしたら、少しでも自分が幸せに思えるように捉えてもいいじゃないか。
というわけで、今日は私が「人生は物語」と捉える理由について語ってみました!
日本人は物語やおとぎ話、神話、あるいはアニメなど含めたファンタジーに馴染みが深いので、共感してくれる人も多いんじゃないでしょうか。
ぜひあなたの考えを深めてください。
もしよかったら教えてくださいね。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
今日の話があなたにとってお役に立てれば嬉しいです❤️
スキとフォローが励みになります♪
▼Kanaと話してみたい!と思ってくださったらLINEから
▼一番Kanaのことを知ることができるのはここ!
▼Kanaのホームページ