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枕囃子/エッセイ/新社会人へ

 春は、おひるね。やうやう船を漕ぎ行く微睡、すこしこらえて、鼾かきたる猫の横に寝そべる。


 寝ても寝ても目覚めぬ身体は冬眠を忘れたニンゲンに『冬がだめなら春休め』と言っている。働くとは一体なんだろうか。私は年中休みたい。

 ぜひ、新社会人の方々に働く目的を聞きたい。私の代わりに考えて欲しい。どうして嫌な思いをしてまで人は働くのかしら。

 私は社会人になってから、とてもバラエティー豊かな経験をしてきました。具体的には「心とカラダと恋の病、休職、退職、無職に復職。家族関係の破壊と再生、同棲と破局、猫との出会い、そして引っ越しを6回」と、ざっくりこんなもんである。是枝裕和大監督にぜひ映画を作って頂きたい。

 さて、これから話すことは、全てが私の主観でございます。世間の目を気にして共感を集めたい穏やかな考え方ではないことをはじめに断っておきます。老若男女読者の皆さま、「生まれてこのかた悩みがなさそうだよね」と言われ続ける私の代わりに、どうか心穏やかで。

 私は猫と暮らしているので猫を参考にする。猫は文字通り『好きなときに好きなだけ』のお気楽ライフを過ごしている。眠い時にはとことん眠り、食べたい分だけ食べる。愛をもらったら返したい分だけ愛で返す。平等な生き物だと思う。

 一方で、人間がニンゲンに愛をこめて奉仕されたら、その時返せるだけの目一杯の愛で返すことは難しい。なぜなら私たちニンゲンはどこかで「払った愛を何倍にも増やして取り戻したい」と考えている。これを『愛の仕立屋』と化したニンゲンは、あたかも返す側の好意という感じで、長年に渡り美しいカルチャーに仕立てし続けている。この時点で不平等である。

 そして愛を返すためには消費活動が伴う。
 例えば、最近愛を感じたあなたは例のカルチャーに基づき、多めに愛を返しておきたい。そんなあなたが仕事の休憩中に買ったコーヒー。あなたがここで金を払ったのはコーヒーが好きだからでも、無機物なコーヒーに愛を与えたいからでもない。
 労働の先に得られる金で、様々な愛を感じる対象に振り向いてもらうため、コーヒーでドーピングをして『金で愛を買う消費活動』を盛んにするのである。実に、滑稽である。

 ここで、滑稽消費活動結果の一例を述べる。
 
 私は猫に振り向いてもらうために、一生懸命に金で愛を買っている。例えば、猫砂。こんな消耗品に金をかけるなんてバカバカシイヨ~なんて周りは言うが、私は月に三千円くらい使う。猫もヒトもトイレの居心地は結構重要だと思うからきっと喜ぶと想像している。確かに、排泄の質は大いに向上した。しかし、そんなコストも露知らず、今日も猫は砂を四方八方に遊びに行かせて、私はそれを掃除機で吸い取るのだ。

 私には何も返ってきていない。相手のQOLが、多少向上しただけである。それを見て「ああこの猫は私がいないと生きていけないのね」と勘違いをして、こちらの愛だけが重くなる。

 ああ、これがメンヘラの始発駅であるか。

 今の猫砂噺は、「愛は真っすぐ愛だけでアピールしないともらえない」という教訓にぜひともしていただきたく思う。この場合は、ただの『豚に真珠』のエピソードな感じもするが、心穏やかなあなたは頷ずいているはずだ。

 ちなみにコーヒーは今よりもっと戦争の盛んだった時代、本当にドーピング的役割を担う薬のような存在だったらしい。摂取すると興奮して身体能力が向上するそうで、なるほど眠れなくなるわけだ。

 そういう訳で、摂りすぎ注意と私は思う。無理やり奮い立たせて気の向かないことを頑張るのは良くない。とは言え、コーヒーを飲めば必ず腹をくだす私は普段から縁遠いので「あらまあ、昼間から興奮する刺激的なものがお好きなのね。どうぞどうぞ!」と他人事ではある。

 それから、「見返りを求めるな」と人はいう。見返り美人は大歓迎だというのに変な話である。そうして「あんまり期待しちゃいけないよ」とか言う人もいる。期待もされないその相手は一体何のために頑張っているのか、可哀想でしかたない。

 あんたもそいつも残念ながら同じニンゲンなので、そんなことしているのは他人から見たらどちらも悲しく見える。そもそも「期待」って言葉はとても自分勝手な意味なのだから、むやみやたらに他人を当てはめるんじゃないよ。バチが当たるよ。

 自分を守れるのは自分だけなのだし、事の失敗を何でも他責にするのは自信のない証拠だね。あんたが一番頼れる存在だよ。自分も周りもほどよく信じて、天気の良い日は外で休憩しなさいな。雨の日は昼寝でもするといい。

 それから、新人は出しゃばってなんぼである。失敗しないと学べないという昔からの言葉は本当なので、「日本の少年少女よ大志を抱いて図々しく在れ」と思う。

 しかしながら温故知新の心構えは忘れずに。その歴史を知ることで新しい道は拓けるので、昔の風潮などが生まれた時代背景も研究せずに文句ばかり垂れるのはお門違いということを、よく念頭に置いて図々しく在ると心地よくいられるでしょう。

 私のように図々しく生きていくことがとても恥ずかしい人は、話し言葉を変えると良いと思う。方言のある地域はどうしますか?特殊な業界はどうしたらいいですか?という質問があれば、あなたの想像力に任せますとしか答えられないので遠慮します。

 例えば、「このやり方が分からないので教えてください」ではなく「出来るようになって早く先輩を楽にしてあげたいのでこれを徹底的に教えてください」という具合で、相手への敬愛を忘れずにコミュニケーションを図ると上手くいく。相手も同じニンゲンである。余裕がない上に『見返り』がないのでは、やる気もでないのだから。

 それでも解決しなかったら、最後のダメ押しで「新人の頃ってどんな風に覚えましたか?」と聞いてみるといい。そして自分とその上司の新人時代を比較して「なるほど、先輩は教育係に恵まれたんですね!」とでも言って、ハッとさせればいい。

 教育係は初心忘るべからず。新人は堂々と学び偉ぶるべからず。しなやかに、時々は生意気に。しかし、全員が同じ話し方で必ずうまくいくとは言えないので、きっと大丈夫としか言えない。難儀である。

 つまり、納得のいかない環境も上司の言葉遣いも、今日の昼めしも自分次第で良い方向に変わると私は考えている。求められる数だけ自分も求めているのだし、こんな人生でどう楽しむのかがとても重要だ。

 思いつめる必要はない。どうしようもなくなったら、京都の賀茂川を北に向かって歩くと良い。出町辺りから出発するといいだろう。

 京都が遠い人は申し訳ないが近所の八百屋や駄菓子屋などの歴史のある店に行って童心に還るがよい。店主と話してオマケのひとつでも貰えたら満点である。そのオマケは紛れもなく与えた愛に愛が返ってくる事例なのだ。

 そんな風に、働いているうちに誰かにオマケを与えることができるようになることが、社会人として生きる一つの目的ではないかしら?と私は感じている。

 今はどんな形でも沢山貰っておけばいい。知らない形を沢山知ればいい。そうして、あとで同じ形の愛を、気づかれなくても良いからそっと、誰かに返せばいい。

 愛という漢字の成り立ちは、人が歩きながら後ろを振り返る心情、つまり『過去を振り返ること』らしい。つまり、過去に与えられた分だけ愛が生まれるのだ。
 
 今日までに貰いそびれた人は、今からたっぷり貰えばいい。別に身近なニンゲンからでなくても良い。

 「愛おしい」「嬉しい」「ありがとう」「尊い」と感じた瞬間、言われた瞬間、あなたは愛を受け取っています。

 読んでくれて、どうもありがとう。

 さあさあ、私は枕囃子が聞こえてきたので、そろそろ昼寝をします。
 私にとって昼寝はコーヒーみたいな存在なので、これも消費活動と言えるかしら。
 眠いったらありゃしないよね、はるのあけぼの。

 万人に好かれるあなたではなく、どんな自分も大切にできる大志を抱くあなたであれ、と願う。
 そして偉そうに語る私も。

 キーワードは「何を信じるのか」である。

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