見出し画像

田辺朔郎の武勇伝 ②琵琶湖疎水時代

自分の推しの土木技術者 田辺朔郎の武勇伝を紹介します。
琵琶湖から京都へ水を導く「琵琶湖疏水事業」は現在の貨幣価値でおよそ1500億円のビックプロジェクト

若干21歳で京都府に就職した田辺朔郎は工事責任者として数々の困難に立ち向かいます。


朔郎議会に立つ!

琵琶湖疏水事業実施のため、まず議会の承認を取り付ける必要があり、京都府知事北垣国道は議会の説得にあたります。 計画・設計について説明するのは工部大学校を卒業したばかりの田辺朔郎。
「若造」と揶揄されながらも議会の説得に成功したと伝えられている。

決戦ヨハネス・デレーケ!

当時の日本の工業技術は、西洋からお雇い外国人を招き学び始めたばかりで、産業の育成はまだその端緒についたばかりだった。

疎水工事はその困難性から実現を危ぶむ声が各方面から上げられていた。
これらの反対意見を説き伏せる事が田辺朔郎の最初の仕事だった。

彼の前に立ちはだかったのが、内務省のお雇い外国人ヨハネス・デレーケである。
「日本治水の父」とも称せられる氏の意見は重く、学生上がりの田辺朔郎が一体どのように論破しえたのか想像も付かない。
 だが、史実は反対論を押さえ起工承諾に至っており、この困難を克服したことが伝えられている。

レンガが無いので工場を作る!

疎水工事に必要な部材をまかなう事は、当時の日本の工業力では不可能だった。
 例えば疎水工事に使用されたレンガは約1450万個であるが、当時最大規模の堺のレンガ工場の生産量は年間200万個に過ぎずとても追いつかない。

これを自給するため山科に大工場を建設。
年間1000万個を制作し自給した。

そのほかにも官有林から松丸太を切り出したり、石材を切り出したり
あらゆる物が不足する中、自分で作り出した事が伝えられている。

技術者がいないので、養成します!

物も無ければ人も無い。
新しい西洋技術の工事を指導できる技術者など居るはずもありません。

田辺朔郎は自ら講師となり夜間教室を開き、技術者の育成にあたります。
この時に使われた図表等の資料は日本初の技術者用ハンドブックとしてとりまとめられ「袖珍 公式工師必携」として出版されています。
袖珍公式工師必携 訂13版 - 国立国会図書館デジタルコレクション

昼は施工監督夜は技術者の育成、それが終わってから最新技術の研究
疎水工事時代の田辺朔郎は正に八面六臂、超人的な活躍が伝えられている。

世界初の水力発電の報に接し、直ちに設計変更!

米国コロラド州のアスペン市で世界初の営業用水力発電が開始されたとの報に接するや田辺朔郎は直ちにこれを視察。

当初計画していた水車動力を破棄し電気の利用に計画変更した。
なお、視察にかかる議会への説明については、当初計画である「水車動力の実態調査」として旅費を請求するなど したたかな一面が伝えられている。

世界初の水力発電所を視察!その場で新しい装置を考案!

アスペンに作られた世界初の水力発電は、横のランプの輝きを見て手動で発電量を調整する原始的な物であった。
 田辺朔郎はその場でハイドロリック・デフレクション・ガバナー(水圧式除斥調圧装置)を考案、現地でアメリカの会社に製作を依頼して帰国の途についた。

完成した蹴上水力発電所は、世界最先端の設備をもつ世界最大の水力発電所となった。

カナダ太平洋鉄道株式会社の社長と意気投合!

前年に開通したカナダ太平洋鉄道に乗ってアメリカ大陸を横断。
同社の社長と意気投合、鉄道建設に関する知見を交換し、社長自ら綴った資料をもらったと伝えられている。
(なお、田辺朔郎は琵琶湖疏水工事の後、北海道の鉄道建設に携わっており、気候の似たカナダでの知見は大いに役立ったもよう)

田辺朔郎やらかす!

ロッキー山脈を越える大陸横断鉄道の雄大さに感動した田辺朔郎は一句を吟じた。
「捨筆(ステペン)と 実にもっともな 此のけしき」
※ステペンはこのあたりの最高峰で、カナダ太平洋鉄道株式会社の前社長の名前が付けられていた。

あまり上手くないし、字余りだし、かなり微妙な出来映え・・・
ところが、田辺朔郎は工学会誌の掲載原稿にこの句を記載。
田辺朔郎の黒歴史が今に伝えられている。

003-088-001.pdf (M22工学会誌88号 文末に掲載)

琵琶湖疏水の世界一、日本一

世界一 ・水力発電の規模と装置の先進性
    ・インクラインの規模


日本一 ・長等山のトンネル延長(2436m)
    ・レンガの使用量
    ・大津閘門の規模と設備


測量精度についても日本一であったと思いますが、これについては嶋田道生の手柄なので書いていません。疎水計画の実測図は計画自体には反対したデレーケも「測量実施者は大いに誇っていい」と賞賛した出来映えだった。

琵琶湖疏水工事の凄さを一言でまとめると、
西洋に100年遅れていた日本が、一気に追い抜いて先頭に立ってしまう事業を成し遂げた。
と言う事ができるでしょう。

音羽山から見た琵琶湖疏水と比叡山から見た琵琶湖疏水(私のデスクトップの壁紙)

(余談)
一般には日本で最初のシャフト(竪坑)工法も上げられるのですが、これについては安積疎水で採用実績があるようであり、南一郎平の意見書でも述べられていて、なぜ田辺朔郎が「日本で初めて」(琵琶湖疏水記念館の音声資料)と述べたのか疑義があるため上げていません。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集