ジブリを1作も見たことがない22歳が「君たちはどう生きるか」で宮崎駿に出会った話 —— ノーマン・ブライソン「拡張された場における〈眼差し〉」を軸に
ジブリを見ないまま22年間生きてきた。わたしのはじめてのジブリは「君たちはどう生きるか」だった。
*以下、ネタバレあり。
かまいたちのコントに「トトロ見たことないねん」と山内くんが自慢して、濱家くんが戸惑うコントがある。「何回も繰り返される再放送の網をぜんぶくぐり抜けて、37年間1回もトトロ見たことないねん。すごない? みんなはトトロ見たことない状態には戻れへんやん!」と力説する山内くん。「なにがすごいねん」とツッコむ濱家くん。
そのコントを見ながら、わたしはふと気づいた。
そういえば、わたしもトトロ見たことない——。
思い返せば22年間、わたしは金ローを見たなら必ず途中で寝入り、レンタルビデオ店に行ったならアニメDVDには脇目も振らずゲームセンターCXの棚に直行し、YouTubeの岡田斗司夫が話す都市伝説めいたジブリ解説のサムネイルにさえスルーを決めこんできた。トトロどころかジブリを1作品も最初から最後まで見たことがなかったのだ!
(ちなみに、ポニョの前半は見た覚えがあります。後半は寝た。断片的に知ってる作品もある。カルシファーは知ってる。アレって火? かわいい)
この事実はわりと人に驚かれる。そしてみんな口をそろえて言う。
「『君たちはどう生きるか』を見たら、感想聞かせて!」と。
既ジブリ者は「君たちはどう生きるか」をどう観るか?
その背景には、件の映画が「データベース映画」的に消費されていることが挙げられるだろう。
「現代思想」2023年10月臨時増刊号(青土社)の総特集「宮﨑駿『君たちはどう生きるか』をどう観たか」でも、ジブリの作品群との関連は複数指摘されている。
と、小松祐美は冒頭のシーンに『風立ちぬ』を連想すると記しているし、
奥村大介も同誌の「無翼のものたちの詩学——宮﨑駿監督『君たちはどう生きるか』をめぐって」において<そのことが、たとえば『となりのトトロ』(一九八八)や『千と千尋の神隠し』(二〇〇一)の黒いススワタリを想起させるワラワラが白へと色を変え>と過去作品との類似を指摘している。
では、そうした事前知識をもたない鑑賞者の目に「データベース映画」はどう映るのか。みんなの関心はそこにあるらしい。
未ジブリ者は「君たちはどう生きるか」をどう観たか?
で、見ました。結論。
宮崎駿の顔は見えないけれど、異界訪問譚として楽しめた。
わたしは小説を書いている人間で、映画は物語だと思っている(つまりそれは映画=ナラティブではないという前提があるのだが)。映画は絵画ではないし、体験ではないし、思考ではない。わたしにとっては。
だから、純粋に眞人が疎開先で異界への扉を開き、異界での冒険を通して世界の理に触れ、生還し母の死を受け入れる物語、というその骨格の精緻さや物語構成の巧みさに感心することはあっても、それ以上がない。
……それはジブリを見たことがないからか? わたしが物語作家だからか?
正直、ジブリ作品どころか宮崎駿のドキュメンタリーも一切見たことがなかったわたしは「この映画そのものが宮崎駿の人生だよね」と言われてもピンとこず、世界をつくるとか創造主とかいう言葉をだされてようやく「あっ、大叔父さまって宮崎駿なんすか?」ときづき、「えっ、眞人のモデルも宮崎駿だって言われてる? なんすかそれ。ええ? 世界が〜って第二次世界大戦の話じゃないの?」と困惑する始末。
そもそも国語教育的な作者の意図を解釈しましょうみたいな読解がキライな性質だから、映画で示されている含意や抽象的なテーマはほとんど読み取れなかったといっていい(ジブリ/宮崎駿を知らないことにプラスで、わたしがあまり提示された物語にその物語の骨格以上の解釈をさしはさみたくない性格であることに留意されたい)。
とうぜん、冒頭のシーンで『風立ちぬ』を想起することも、ワラワラを見て『となりのトトロ』のススワタリを連想することもなかった。
宮崎駿に出会うことはできた。宮崎駿の顔が見えたかどうかは、わからない。たぶん、見えていない。
わたしは「君たちはどう生きるか」という映画をほんとうに『視る』ことができたのか?
視覚と視覚性の話。視るという行為は生得的なものでなく、文化の中で構築されるという前提に立つなら、「わたしは『君たちはどう生きるか』という映画をほんとうに『視る』ことができたのか?」。
ノーマンのいう<意味のネットワーク>ないし<社会的に含意された了解可能な世界の記述>は例の映画でいうと宮崎駿の発表してきたジブリ作品(あるいは世界に散らばる美術作品も含むんだろう。驚くことに、わたしは美術作品にも造詣が深くない!)によって構築されていると思われる。
ということは、それらの知識のない視覚には媒介するべき無数の記号のスクリーンがない、視覚性を帯びない単純な視覚が残置されるのではないか。
……いや、ひとつ間違っていることがある。
ジブリがすきだという友人と話していたときのこと。彼女がなんとなしに「インコよかったな〜フォルムも……眞人を連れていくときの表情も」と言った。
「あ〜あの宮沢賢治」とわたしは答えた。
「宮沢賢治?」友人が聞き返す。
「え? アレって宮沢賢治ってことじゃないんですか? 『データベース』消費で言えば」
「いや、それは思わなかったな」
「運ばれていった先の台の感じとか『注文の多い料理店』感があった気がするんすけど」
「そうかな? 賢治よりだいぶアッサリだし、よくある描写じゃない? というかね、ほかの要素に気をとられて——ジブリや絵画作品のオマージュに頭がいって、賢治を感じるすきがなかったよ、わたしは。アレで賢治を感じてるのは上村さんだけじゃないかな」
「はえ〜」
——という出来事があった。
なにが言いたいかというと、わたしはジブリネットワークはもっていないが、文学ネットワークはもっているということ。
主体(網膜) — 媒介するスクリーン(言説の総体) — 世界(作品)という関係性
遠近法的な絵の見方が導入されていない時代の人々は絵の中にあるモノの距離をたずねられると、絵の風景上での距離ではなく紙の物理的な距離を答えるという話がある。そこにあるのは世界の認知の仕方の「ちがいであって、上下の差ではない」。
今回のわたしの例はジブリをまったく見たことがないという偏った認知状態から映画を語ってみる試みだが、認知状態がひとによって異なるのはあたりまえで、同じ映画館で同じ映像を観たとして、同じ映画を視ることのできるひとなどいない。
それは同じ感想を抱かないとかそういう話ではない。そもそもの主体(網膜)—世界のあいだには<言説の総体が挿入されている>というノーマンの言葉を借りるとわかりやすい。
<認識すること>の不可逆性
「君たちはどう生きるか」という映画に関していえば、おそらくジブリを見てから「あ、これってあの作品のあのシーンみたいだ」という見方をするのがたのしい。正しいかは知らない。
でも、そうしたらオマージュを探すことに気を取られて「ムーンウォークするクマに気がつきましたか?」な事態(下記動画を参照)になるかもしれない。それに、物語の深い解釈を探ろうと自分の思考にばかり閉じこもってしまうかもしれない。
いずれにせよ、ジブリを一度見たひとがジブリを見たことがない視点から世界を=「君たちはどう生きるか」を、視ることはできない。
そう、つまりわたしは声を大にして言いたいのだ。それはもう、かまいたちの山内くんバリに。
「おまえら、トトロ見るまえにはもどれへんやろ! おれはトトロという文化的認識を媒介しないまま世界を見ることができるねんぞ!」と。
まだわたしはトトロを見たことがない。おわり。