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花虹源氏覚書~第二帖帚木(三ノ三)
帚木その三 三、藤式部丞の話
さて、思いがけず始まった身物語は、藤式部丞の番となりました。
「式部のところには、何やら面白い話があるだろう、さあ、話せ」とせめたてられて「下の下の身分の私めには、お耳に入れるような話はありませぬよ」と卑下して断ってもさらに攻め立てられて、とうとう口を開きました。
「おそるべき賢い女がおりました」と。
私がまだ文章生であったころに出会った、賢い女の話をいたしましょう。
中途半端な博士などではとうていかなわないくらいに学問の才も際立っていて、天下国家の政から暮らしに役立つ豆知識まで何から何まで知らぬことがない、という女でした。
その女は、私が師事して通っていたある博士の娘でございました。
娘とも何度か言葉を交わしていたのですが、あるとき博士が突然、盃をもってきて漢詩の一節を吟ずるではありませんか。
「貧しい家の娘は夫に尽くす良い妻になるぞ」などと謎をかけられては否やといえるはずもありません。
博士の手前、娘のところに礼を失しない程度に通うようになりました。
女は、私の世話もきちんとしてくれましたが、その間中のべつまくなしに教養の身につく講話、出仕に役立つあれやこれやを講釈するのです。
共寝の朝の睦まじい語らいの折にまでその調子ですから、うちとけてやすらぐひまもありませんでした。
手紙も、仮名文字などは一切交えないきっちりとした端正な文字で理路整然とした漢文で送ってよこします。
何から何まで圧倒されながらもその女を師として学び、私の学も深まりましたので感謝はしておりますが、私が浅学非才な身ですから、さぞかし愚か者だと思われているのだろう、と小さくなっておりました。
ある時、やむを得ない事情でしばらく通えず、久しぶりに訪れたところ、いつにもなくよそよそしく几帳で隔てをおいています。
ぶすぶすと焼餅でも焼いているのか、ばかばかしい、そっちがその気なら、別れる良い機会だなどと思ったのですが、この賢女が並みの女のように嫉妬など愚かなことをするはずもありません。
女がせかせかと早口に申しました。
「ここ数か月の間、病にかかっておりました。高熱に苦しみ、解熱の薬草を服用いたしました。悪臭がひどいので、残念ながらお会いできません、悪しからず。
ですが、貴方のご要望のことは何でも承ります。どうぞお申し付けくださいな。」
こんな時にもてきぱきと実用的なのです。
ただ、「承知した」とだけ言って立ち去ろうとすると、私の態度を物足りなく思ったのでしょう
「この臭いが消えたころに、来てくださいね」と声高に呼びかけるのを無視もできず、しかし、服用したというニンニクやニラの臭いはなんとも耐えがたいのです。
さあどうやって逃げるかと思いながら
ささがにのふるまひしるき夕暮れにひるま過ぐせといふがあやなさ
と、詠み捨てて走り出たところ、後ろから
逢ふことの夜をし隔てぬ仲ならばひる間も何かまばゆからまし
と、さすがに賢女なだけあって、打てば響く速さで詠み返してきましたよ。
語る藤式部丞の生真面目な様子に聴いていた公達は、どっとお笑いになりました。
「そんな女がいるものか、そんな恐ろし気な女と過ごすくらいなら鬼にむかいあっているほうがましだよ」
と魔除けの「爪弾き」をして、「そんなおかしな作り話ではなくて、もう少しまともな話をせよ」と藤式部丞をお責めになりましたが「いえいえ、本当のことでございますよ、これ以上めずらしいことなどありましょうや」とすましておりました。
――― 藤式部丞の歌にでてくる「ささがに」は蜘蛛のことで、蜘蛛が夕方よく動くと愛しい男が訪れる前兆だという言い伝えを踏まえているのね。
「蜘蛛の動きで私が来ることが分かっている夕方なのに、昼間(蒜(ひる)の臭いの消える間)を過ごせというのは理屈に合わないおかしなことをいうね」ということかしら。
でも、急に訪ねてきておいてこの言い分はひどいわ。そもそも体調を崩してずっと寝込んでいたのを藤式部丞は知らなかったということでしょう?
そんな薄情な男にとやかく言われたくないわよね。
博士の娘さんは、それに対して「毎日毎夜お逢いしている間柄ならば、昼間だろうと蒜(ひる)の臭いがしている間だろうと恥ずかしいわけがないでしょう?」と、滅多にこない貴方が悪い、と反論しているのよね、当たり前だわ。
ところで、この博士の娘さん、なんでこんなにけなされているの?
ニンニクの臭いをぷんぷんさせているといっても、滋養をつけるお薬なのだなら仕方ないでしょう?
推察ではございますが、この女人がまさに蒜(ニンニク、ニラ)のような方であったためかと思います。
滋養があり身体に良いとわかっていても強烈な臭気をまき散らし周囲の者を辟易させる蒜。
かの女人は賢く有能で男を凌駕する才の持ち主ですが、それをそのまま表に出してしまえば、おそれおののく凡夫もございましょう。
藤式部丞も身物語を語りおさめるにあたって「何事も自分の知っていることでも知らない顔でふるまい、言いたいことがあっても一つや二つは言わずにすますくらいが良かったのではないでしょうか」などと述べておりました。
――― 女は少し愚かなくらいちょうど良いということ?
学問は必要ないの?
いいえ。
当世でも妻には一歩も二歩も下がっていてほしいと望む殿方は多くおります。
されど、その言い分を鵜呑みにするは輪をかけた愚か者にございます。
我らの一生は、滔々と流れる大河を行く小舟のようなもの
流れに身を任せてするすると漂うて終わるも一生、乗り合わせた船頭のなすままに行くのも一生。
いずれにせよほんの泡沫の夢のような短世でございますが、古今東西の叡智を学び、深く思考することで、わずかなりとも流れに掉さす櫂を手にすることができまする。
仮に櫂など手にしたところであらがうこともできぬ流れもございますが、はなからその機会を放棄することもございますまい。
ただ、学びは、先人の叡智を借り着として己を偉く大きなものと錯覚させることがございます。
自らの学びを必要以上にひけらかすものは、男であれ女であれ、つきあいにくいと敬して遠ざけられましょう
学びと慎みは同時に身につけねば、かえって己を損なうこともございます。
―――なんだか小難しい話になってしまったけれど、自分の人生を人任せにしたくなかったらしっかり学んでよく考えろってことでよいかしら。
また、話が横道にそれてしまったわ。
この後はどうなったの?
光る君は、ずーっと黙っていらっしゃるのね。
宿直の夜、口々に女人の品定めを行い、それぞれの身物語を聞きながら、光る君は、たったひとりの美しい人のことを心の中で思い続けておられました。
藤壺宮は、物足りないこともなく行き過ぎたところもない、とその欠点のない完璧なすばらしさを、ただただ思い浮かべて胸いっぱいになっておられたのです。
光る君の苦しい胸の内など知らぬ皆は、面白おかしく語りあかし、長い夜はようやく明けたのでございます。
―――光る君は、藤壺の宮様のことをひそかに深く慕っていらっしゃるのね。
どんな女人たちの話を聞けば聞くほど、宮様への想いが募ってゆく・・・でも、この恋は、実らないわよね?
藤壺の宮様は、光る君の父帝の女御なのだから。
さて、無謀な恋を抱えた光る君がどのようなことをなさいますか。
またの機会にお話し申しましょう。
続く
岩波文庫源氏物語(一) 40ページから63ページ
見出し画像は「週刊絵巻で楽しむ源氏物語」より
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