ヨルシカの新譜と幻燈の関連性について 【ヨルシカ 考察】
最近の新曲と幻燈の中での作品は繋がっているように思います。
このnoteではそれぞれの類似点を述べるだけで抑え考察は最小限に抑えようと思います。
また、目的の性質上こじつけの様な面も出てきてしまいますがご了承ください。
アポリア×老人と海
この2曲の繋がりは比較的分かりやすいように感じました。
老人と海のサビで乗っている風に乗る何か、それが気球なんだと思います。老人と海のジャケ写の様な、海の前で寝ている老人を想像します。アポリアの「長い夢を見た」の歌詞を考慮すると、この気球に乗るシーンは彼の夢の中だと思います。
老人と海のラスサビ前にはこんな歌詞があります。
老人が肩を叩かれて夢から覚めます。夢から覚めた後、ラスサビの歌詞はこうです。
一番二番の歌詞では「雲」を越えていたのに対して、最後に越えるのは「海」です。
「雲」を越える気球から「海」を越える船へと乗り物が変化していることが分かります。
老人の本業は漁師です。この変化は夢から覚めた老人が、漁師としての生活を再開したことを示しているのではないでしょうか。
また、アポリアの概要欄と老人と海の歌詞にも繋がりが見えます。
概要欄を一部引用します。
この言葉に対して老人と海ではこんな歌詞があります。
アポリアは知の欲求であるのに対して、老人と海は経験の欲求であるように感じます。
互いに制限があり死ぬまでに満たしきれないこと、その制限をアポリアの概要欄でも老人と海の歌詞でも、重力から抜け出し宇宙へ行けないことと表現しています。
原作の老人と海にて老人はアフリカのライオンの夢を見ます。これは老人が老いに抗う象徴的な描写です。制限のある人生の中で、水平線の先を知ろうとする老人、そして我々の姿を描いて両曲は占められています。
忘れてください×アルジャーノン
忘れてくださいは歌詞の方向性上、左右盲やチノカテをはじめとした他の幻燈曲、ないしは幻燈以外との関連も見えます。
今回は主題に則ってアルジャーノンのみに触れますが、考察の余地は無数に残されていると思います。
それぞれの冒頭の歌詞です。互いに貰ってますよね「心」。また、忘れてくださいでの「花束を」の歌詞は、アルジャーノンの原作であるアルジャーノンに”花束を”が踏まえられていると思います。
恋人関係の二人が海岸に佇む姿を想像します。海岸上で「貴方」は水平線の先を夢見ています。
将来叶えたい夢と就寝中に見る夢、このダブルミーニングを考えると、忘れてくださいでの「寝ぼけ眼」は叶えたい夢へ向かっている様子とも捉えられるのではないでしょうか。
そんな「貴方」に対して自分の心を忘れてくださいと願うのは、夢へ向う最中に彼らがすれ違ってしまったからなのかもしれません。
すれ違ってもなお「貴方」は海岸で見ていた、遠くを目指して長い迷路を進んでいきます。忘れてくださいにおけるこの歌詞は、長い迷路の先でまた出会えたらと言う願いのように聴こえます。
いさな×月光浴
この2曲も比較的わかりやすいのではないでしょうか。
勇魚とはクジラのことを指しますが月光浴のMVに出てくる金魚と大きさが違い過ぎる!という問題点は一旦無視します。
月光浴のMVにて出てくる2人、彼らの前世を描いたのがいさなと言う楽曲だと思います。
月光浴の二人はかつて同じ魚だったのだと思います。彼らは話したり鳴いたり泳いだりして、一緒に日々を過ごしました。ここでの「白く微睡みながら」と言う歌詞は、海の中で月明かりに照らされている様子を連想させます。
また、この月明かりに照らされている日々は
月日の中で生きる我々の日々とも関連付けられていると思います。
2人で海の中を過ごした前世を、月光浴のMVにおける男の子は覚えているんだと思います。一緒に過ごした日々の中で、自分たちを照らした月明かりを連想させる「白い砂」や「月の束」を見て「貴方は気づいているんだろうか」と嘆きます。
思い出せるように待っていた波も、自分たちを照らした月明かりも存在しているのに、月光浴の女の子は前世を思い出せないでいます。切ない。
月光浴のサビは人生、そして記憶を「重ねて」いる様子が連想できます。そんな中で「溢れて」いった記憶も沢山あるんだと思います。そんな記憶に気づけずに我々は月光浴を続けていくのだと思います。
ルバート×ブレーメン
2024/6/26に発売されたアナログ盤のA面がルバートでB面がブレーメンであることから、この2曲の関連性は公式でも発表されているようなものです。
また、ルバートも忘れてくださいと同じく忘却の曲です。ルバートのジャケ写の女性が鳥のとさかのようなものに覆われているのは、鳥頭であることを暗示しているのではないでしょうか。これはブレーメンに鶏が出てくることに繋がると思います。
この二曲は人生を音楽に関連付けて描く類似点がある思います。ブレーメンでは2人でマーチを刻んでいるのに対して、ルバートでは1人きりになっています。1人きりで歩いているのは、ルバートの語に暗示されるように、歩くテンポが周りとズレているからではないでしょうか。
ルバートの中でレコードは記憶や人生を象徴していると思います。この「飽きるくらいに回していたレコード」は飽きるくらい思い出していた記憶を意味しているのではないでしょうか。
笑われていることも類似点として挙げることができます。
笑われることは「メロがポップじゃない」レコード(記憶)なんだと思います。
だからこそ
愛していたとしてもルバートの中では忘れようとします。
これに対してブレーメンにはこんな歌詞があります。
自分自身で忘れずとも周りも覚えていないのだからと楽観的な姿勢を見せます。
ルバートは曲の全編を通してレコード(記憶)を忘れようとします。それはブレーメンを踏まえて考えると、メロがポップでもポップじゃなくとも、本当は忘れたくないと嘆く曲に聞こえます。
悲しい記憶も楽しい記憶も忘れてしまうことは仕方の無いことです。この記憶たちを想うのは考えすぎなのかも知れませんが、やっぱり人は考えてしまう生き物なのだと思います。
ブレーメンの最後の歌詞はそんな我々へ向けた歌詞のように感じます。
今回はここまでにします。
取り上げてない楽曲に関しては
晴る×さようならモルテン、テレパス×雪国だと考えています。この二つは自信がないので考えがまとまったら書きます。
ライブ楽しみ
ここまで読んでくれた皆さんありがとうございました。