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座禅と「今」がたのしくなったこの頃。

少し前から日曜日の朝に座禅をすることが増えた。
街中のお寺に出向くときには、中学生以上のわが子(上ふたりのうちどちらか)を連れていく。なぜ座禅をしようと思ったかというと、最初は中学生の娘の心が不安定かなと思ったからだ。受験生の娘に対して、どう対処すればいいかと考え始めるとわたしの心の混迷も深まっていく。そんなとき、友だちが話していたお寺の座禅会についての情報をキャッチした。なんだか心が整いそうな気がする。元々座禅ってしてみたかったし。よし、いってみよう。娘を誘うと、意外といい返事が返ってきた。まだ冬の寒いころ、朝の6時すぎに家を出ていく。真っ暗だから空の星もくっきり冴えて見えた。車はお寺の近所の有料駐車場に停めた。開始時間の7時より少し前、門をくぐって初めましてのお寺に入っていく。お寺は重厚で、広く大きく感じた。どうすればいいかわからないけど、多分なんとかなるだろう。他にも慣れた感じの参加者の方々がいて、その列についていった。
ここはお寺の本堂なのか。玄関のたたきは綺麗で少ししっとりとしていた。そういえば入り口に「すべります ご注意ください」と書かれた看板が立っていた。ん?受験生だったりするけど娘…まあいっかな。笑。看板と娘を撮った写真は、すべりますの部分が切れるようにトリミングしておいたことをここに付記しておく。靴を脱いで玄関?を左に。ふすまを開けてみると大きなお部屋にたどり着いた。
お参りするお寺の広いお部屋って、なんと呼べばいいんだろう。仏間…でもないし。中央にあるお参りする場所の脇に、ちょっと木のポストみたいに隙間が空いた長い柱状の箱が置いてある。前の人の仕草を見ていたら、何かをぽとんと落としているみたいだったから多分お賽銭入れだろう。そう思って、娘に無言で小銭を渡して自分はお賽銭を入れ、手を合わせた。これでいいんかわからんけど。
広々とした畳敷きのお部屋のあちこちに厚い座布団が敷いてあって、一つは平たく置かれ、その上に折り曲げて置いてあった。あれ、逆だったっけ。気持ちよさそう。あれならきっと長い間あぐらをかいても、足がしびれないと思う。
そうしてわからないままに若いお坊さんの声がして、チーンと音が鳴り、座禅会が自然と始まった。最初に座り方の説明をしてくれるのだが、すーっと話を聞いていたら肝心なところを聞き逃してしまった。なんとなくしかわからない。でもきっとこれでいいんじゃないかな、とあぐらをかいて手のひらを組み、目を閉じてみた。
時計もないから時間の過ぎ方が全然わからない。一体いつ次のチーンが鳴るのか、1時間に何回鳴るのか。自分の体感で時がこれほど伸び縮みするとは。まるで永遠みたいじゃないか、とか色々な雑念が湧いてきた。朝なにも食べてないから腹ペコだ。寒い、なんかあったかいものが食べたい。本当はうどんがいいけど、朝に開いてるうどん屋さんなんてこの近くにあるのだろうか。あ、ジョイフル。ジョイフルに行くのか。でも本当はうどん屋さんがいい。丸亀製麺が開いてればよかったのに…などなど、わたしの雑念は果てしないものだった。こんなに雑念だらけで座禅とか、全然なんの境地にも至りそうもないなーうんぬん。。そして次のチーンは一向に鳴らなかった。なんか不思議な初めての感覚だ。あ、なんかところどころ、パシンパシンと叩いてもらってる人がいる。人によってはバシンバシンという強さの人や、優しくベヨンベヨンの人もいる。あれはどうやって叩いてもらっているのだろう。ちょっとうらやましい。薄目を開けて叩かれている人をみる。うらやましいくせにお坊さんが近くにくると「叩かれるかも!」とか思って背筋を伸ばしたりした。
結局チーンはおそらく20分おきに鳴り、その度に足を崩したり伸びを打ったりした。1時間が永遠に終わらないくらいの長さに感じたけど、決して退屈だったわけではない。
娘と外に出ると、もう明るかった。大きな仏さまを拝んでお寺をあとにした。また駐車場まで歩く。あれ、なんかすっきりしてる。
娘っこと話し合ってジョイフルに寄った。二人で向かい合ってにこにこしながら朝ごはん。なんでわたしたちはにこにこしているのか。何がどうって、わからないけれどただただ幸せなのだ。しばらくしても、その幸せ感が時々湧いてくる。なんだろうなこれ。そもそも座り方も間違ってたみたいで、目はつぶらないらしかったので次に行ったときには半目にしといた。そして高3の息子とも行ってみた。息子もなんだかよかったみたいで、たまには行きたい、月に1回くらいは、と言っている。

そんなわけでわたしは座禅がたのしくなった。調べてみたら曹洞宗とか臨済宗のオンライン座禅もあったので、zoomで参加してみた。素敵だ。
何がいいかは説明が難しいし、人によっては感想も違うだろう。だから全員におすすめするってわけでもない。でもわたし、気がついたことがある。
今まで考えすぎで頭がパンパンだった。今、今が過ぎていくのに、今の一息をつくことに集中していない。今、何が不足していたというのだろう。わたしは自分にないものを求めすぎていた。この世に生まれて最高じゃん。

あるライターの講座に落ちて、ちょっとへこんだりしていた。昭和で言えば東京とかに行って、一旗あげようとか思ってるようなもんだ。どっかに行けば何かのパズルがすぽっとハマって、きっとわたしはすんなり持続可能になるのではないかとか、想像と期待ばっかりが大きくなっていた。今の仕事に集中すればいいだけなのに、なんかまた自分の理想像を作っちゃっていたなと思った。深く息をするごとに、ごちゃごちゃを外に手放そう。今あること、一番身近なことが最高。友達が作った雑誌に初めてライターとして参加したときにそう思ったのに、すっかり忘れていたのかな。愛する家族が身近にいてくれる。猫たちもいる。「今」に五感を向けて、集中したりぼんやりしたりしてみよう。この頃はそう思うようになったよ。

近いうちに3日間の坐禅会に1日だけ参加する。朝9時から夜9時まで坐るというのだ。楽しみ。きっとわたしはどこにも行かない。心を澄ますと頭の中のしいんという音が聞こえる。ぐらぐらしたらこれを聞く。忘れっぽいわたしだけど、そのことを忘れないでいようと思った。



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