雑記#1(漏斗状の夜、スティルライフ、「きみ」のこと)
十三月のふかい気圧の底にて、うすく青い煙を吐きながら(気づけば)遠くなっていた海について考えている。雨上がりの乾いた風が熱い頬を撫で、夜半の、漏斗状の公営団地に挟まれた並木通りを東へと抜けてゆく。それ、はべとついた重さを持っていない。海のそばとは含んでいるものが決定的に違うのだ。この街において、その流れはどこか静物のように振る舞っている。
移ろいの中にある流体が、ひとつの固定されたイメージと繋がっている、というのは一見どこか矛盾している。それでも、固い石でさえ大きな時間の流れの渦中にあるのだから、ぼくに吹きつけるこの風が確かな実体を持っていたとしても、おかしいことはないようにも、思う。
昔のギリシャ人に言わせれば、「同じ川に二度入ることはできない」のだけれど、しかし、ここに吹いている風が街の外には吹いていない、というのも感覚的に正しい。
流れてゆくものは文節することができないが、それが全くリズムを持たないということもまたあり得ない。拍子のない音楽はあれど、リズムのない音楽はこの地球上には存在しない。もちろん、生活はそれの例外ではない。
瞬間のない日々は今もどこかへ続いている。
季節が暮れたころから、ぼくはあまり気持ちのよくない夢をみることが増えた。あんまり眠りたくないから、少しだけ、自然と、夜は長くなる(それもまた、あまり気持ちのよいことではない)
もちろん、(厳密にいうなら)ぼくたちは夢の世界のことをひとつも憶えていないはずだ。記憶の棚から引き出せるようになった夢はもはや夢ではなく、妄想へと変わる。覚えていられる夢は、憶えることを許された夢の記憶でしかない。
夢は確かな感触と、記憶からすり抜けるような何か後ろ向きな力だけ、起きがけのぼくに残してどこかへ去ってゆく。夢の世界はぼくの生活の責任は取ってくれないけれど、ぼくは夢の世界の責任でさえも引き受けなければならない。
やがてぼくは重たい目を擦りながら生活のなかへ入り込むのだろう。憶えることを許されなかった、なにか憧れのようなほの暗いものがぼくのことを未だ見つめているのだとしても。
それでも冬の方が夏よりも何倍も良い。カフェオレを買うために自販機へ小銭を入れている時にふと思う。世界とぼくの温度が著しく違うから、ぼくはぼくの孤絶をより確かに感じることができる。「きみ」のことだって、同じようなものだ。寂しいことは辛いけれど、度がすぎなければ悪いことじゃない。
東の空が白む前に、眠ろう、と思う。別に眠れないわけじゃないのだ。ただ時折、変な夢を見るというだけのことなのだから。
たとえ、なにかに囚われているのだとしても、この生活の流れから抜け出すことはできないのだとしても、くり返される生活の波のなかで、ぼくが「きみ」のところまで泳いで行けるように。
(ここまで書いて、そのことはわずかに、希望になりうるのかもしれないとも思う。いまも世界は知ることのできない先のほうへ、ひとりでに流れている。すべてが経由地でしかないのだ。)
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