中村渚散文形態

流体 月一ぐらいです

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雑記#3(東長崎の友人・アピチャッポンオールナイト所感・「ばらの花」の季節)

………………………………………………………  或る日曜日も終わるころ、ぼくは風降る屋上にて電話をとった たしか室外機の裏あたりだったと思う 夜風が柔らかく吹いていて気持ちがよかったが 見下ろした路地の空気はひどく昏く底が見えない 夕立のあとの濁った川面によく似ている  ぼくの生活では基本的に誰かに電話をかけるということがない(職場や学生課のやんごとなき電話以外は取ることもなく)(こんな幽霊みたいな人間が、電話越しにて何を話し合うことができるのだ)(臆病なだけなのだろう、と

    • 雑記#2(廃校と公営団地、二〇〇五年のデジタルカメラ、南下)

       三月ももう半ばになろうとしている。ぼくは廃校の中を歩く。ひとがいないので、校舎の匂いは錆びついている。南下するように過ぎてゆく季節に置いてけぼりにされないように、風景を睨む。十七時まで校庭は開放されているのだが、雨上がりで人はまばらである。いま、雨雲は九州のほうにいるらしい。(大抵、犬を散歩する老人とサッカー少年たちが場所を取り合っているのだが、偶然そこには誰もいなかった) しかし誰もいない学校というのは珍しい。そこにない侘しさ、中心のない音が連続しているように聞こえる。

      • 雑記#1(漏斗状の夜、スティルライフ、「きみ」のこと)

         十三月のふかい気圧の底にて、うすく青い煙を吐きながら(気づけば)遠くなっていた海について考えている。雨上がりの乾いた風が熱い頬を撫で、夜半の、漏斗状の公営団地に挟まれた並木通りを東へと抜けてゆく。それ、はべとついた重さを持っていない。海のそばとは含んでいるものが決定的に違うのだ。この街において、その流れはどこか静物のように振る舞っている。  移ろいの中にある流体が、ひとつの固定されたイメージと繋がっている、というのは一見どこか矛盾している。それでも、固い石でさえ大きな時間

      雑記#3(東長崎の友人・アピチャッポンオールナイト所感・「ばらの花」の季節)