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豊臣はそのまんま聖徳太子


見出し写真は四天王寺庭園。
言われてみたら、そのまんまやなあ。
トヨトミとトヨトミミ。
朝廷は秀吉に聖徳太子の名前を与えた。
検索してみると、この点に同意する意見はけっこうあります。
秀吉自身が理解していたかはともかく。
朝廷の意図としては、あんたん家は最高の品格だけど、あくまで摂政だからね。聖徳太子が天皇にはならなかったことを、よくわきまえてね。ということでしょうか。はて?

時代詳細不明の屏風絵に描かれた
亀井堂
屋根で覆うだけ
推測として秀頼による再建の姿か?

四天王寺は石山本願寺と信長との戦いで荒廃していました。石山本願寺の跡に大阪城を建造した秀吉でしたが、四天王寺の再建には着手しませんでした。
秀吉の死後、子どもの秀頼の時代に四天王寺は再建されます。しかし、まもなくまた焼かれてしまう、大阪の陣に遭遇します。
戦火のなか、鳥居や亀井水といった石造物は残ります。
亀井水の亀形水盤に残る無数の傷の多くは、この大阪の陣のものかもしれません。
特に、両前足を横断する何か重い物を引きずった擦り傷は、江戸時代早々に着手された再建で亀井水保護のために回りに石垣を組み地面を高くし、半地下状態に亀井水を納める、それ以前のものであるのは間違いありません。

傷だらけ。両前足を横断する擦り傷は痛々しい。
江戸時代には回りを石垣で囲み、木の蓋をして蓋の中央の孔から経木をなげいれたり水を汲んだりしていた。そのため、亀井水は観察不可能であった。それを前提に江戸時代の資料を読まなければ。

江戸時代早々に組まれた石垣は今も目の前にあります。この石垣の高さから、明治末に失われた、亀形水盤の手前の影向井の構造も推測されます。

亀井水再現図、南作画

豊臣が聖徳太子のことであるなら、悲しい連想も生まれます。
上宮王家は2代で消滅しました。
豊臣も2代で、滅びました。
諸行無常。

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