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四天王寺を論じるとき、決定的に欠落する『水の信仰』~まず龍神の水ありきが、四天王寺の信仰の原理


亀井水コラージュ


御手印縁起、冒頭

平安時代中期、聖徳太子真筆だとのふれこみで創作された、御手印縁起。これがきっかけとなり、聖徳太子予言書なるものがさかんに創作されるようになる。
聖徳太子真筆というのは嘘だから、捏造文書である。しかし、創作された文献として、当時の四天王寺信仰を物語る貴重な証言であることにまちがいはない。文献的価値は一級品である。
特に冒頭は大切。新聞の見出しみたいなもので、縁起としての何を重視すべきかが示されている。それは

水の信仰


です。
大意
この地の内には池がある。荒陵(あらはか、こうりょう)池という。その底深く、青龍が住む。丁未(ひのとひつじ)の年(蘇我物部の内乱の年)玉造の岸上にまず建立され(今の森ノ宮鵲神社。森ノ宮は守屋の宮、守屋の旧宅)そして、青龍を鎮祭し現在地に移設した。
(ここで荒陵東、とあるのは、平安時代の主流である西方極楽信仰の東の起点が四天王寺である、という意味であろう)
釈迦が教えを説かれた転法輪所であり、長者の身に生まれ如来を供養し仏法を加護す。
寺塔を建て七宝を敷く。
青龍常に守護し、その麗しい水は東に流れる。(当時すでに亀井と歌枕に愛称されていたが、それは聖徳太子の時代にはありえないから)白石玉出の水という。慈悲心をもって飲めば法薬となす。
宝塔金堂は、極楽浄土の東門中心にあたる。


荒陵とは何か


江戸時代初期、小野妹子の子孫で代々四天王寺に使えた、秋野家の文書、天王寺誌、によれば、
仁徳天皇は高津宮の南に隣接するこの場所に御陵を計画した。しかし工事にかかれば、神の怒りにふれ中止。代わりに百舌鳥の現在の大山古墳に変更した。そして、龍神荒ぶるこの地を、荒陵として鎮祭した。
日本書紀の仁徳紀には、荒陵の南の道に連理の木が生えた、という記述があります。
四天王寺が聖君仁徳が残した聖なる地に建立され、地主神の龍神とその聖水がなにより大切だ、つまり、亀井水がなにより大切だ、というのが平安時代の証言なのです。
亀井水がふたつの石槽から溢れ流れる水路には、不思議な石が置かれていました。

この石の正体がわからず、蛙石、巻物石などと呼ばれていました。
明治時代のはじめ、堺市の大山古墳の前方部が土砂崩れをおこし、たまたま石室石棺が露出しました。そのスケッチです。


これにより、四天王寺の謎の石、亀井水の水路に置かれていたのは、仁徳朝の石棺の蓋だとわかり、荒陵の伝承が裏付けられました。


仁徳天皇いらいの龍神信仰の聖域に、聖徳太子はあえて国家事業として四天王寺を建立された。その信仰の基礎は、龍神の聖水だった。


つまり、龍神の怒りだと仁徳天皇が断念した地下水の湧出を、地下水道で分散し、聖水を可視化する亀井水の祭祀場を朝日礼拝のために東に設営する。中心伽藍東側面に高低差をつくり、全体は平らに整地する。
手間のかかる基礎工事が予想されたから、仮の寺院を物部守屋の旧宅に置いた。

平安時代のお坊さんが聖徳太子に仮託し、四天王寺を語るのに、まず亀井水、龍神の聖水から説きおこした、根本動機が、このように理解できます。
そして、亀井水を設営するための境内地形が、その後の再建の折々に、四天王寺の姿を変更不可能なものとして、現在に伝承されてきた。

以上が、亀井水の調査からわかる、四天王寺建立の経緯です。
どうしても、四天王寺と聖徳太子の関係を否定したい論者は、四天王寺建立の時期を白鳳時代以降にずらしたいがために、色々と理屈を並べます。そうしたとき、亀井水などは無視します。

2000年飛鳥の酒船石の岡の麓に、四天王寺の亀井水と同じ規模と構造の亀形水盤が発見されたとき、まず考察しなければならなかったのは、四天王寺亀井水の構造と水の信仰であったはずです。

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