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20日大寒、21日初大師、22日初太子。実は、四天王寺さんの太子会は歴史が浅く、江戸時代から大師会が盛んでした。
四天王寺にお勤めさせていただき、変だなあ、不思議だなあ、と思ったことは、亀井水が無視されていた、というばかりではありません。
まず、ご縁日が、弘法大師の21日だということ。
22日が、開祖聖徳太子のご縁日だということは、ほとんど知られていませんでした。
四天王寺さんのご縁日は21日。
聖徳太子の22日をご縁日にされたのは、わりかし最近の話です。
とりあえず考えました。
四天王寺の信仰は、平安時代より夕日礼拝の浄土信仰により支えられてきました。
無論、聖徳太子は日本仏教の開祖ですから、四天王寺はあらゆる仏教宗派を包摂するにとどまらず、神社も一体化した神仏混淆の、宗教の大テーマパークです。
それが、春秋の彼岸まいりに集約されていきました。
春彼岸の中日が、3月21日春分の日です。この日は、広い境内の四天王寺さんといえども信じられないような混雑となります。
ところで、弘法大師は3月21日に、生きたまま入定されました。あえて、彼岸を選ばれたのです。
だから、弘法大師の命日が、彼岸つながりで四天王寺のご縁日となる。
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お彼岸、そして毎21日には、亀井水の経木のお流しも、超大混雑になります。
なにしろ、各お堂で供養をされた方全員が、亀井堂に集まってこられるのですから。
戦前はお堂の地面が低く、短いシャクで亀井水に経木が届きましたから、お年寄りも子どもも自分でお流しができた。
しかし戦後の再建でお堂の基礎をかさ上げされ、亀井水がより深くなった。お経木を届けるシャクも長くなり、とてもお年寄りには持てない。
それで、お堂の職員がやることになりました。
いや、まあ、十年で肩を壊しました。
治るのに十年かかりました。
江戸時代、四国八十八か所巡礼が庶民むけに整備され、ガイドブックもベストセラーになる。それまで修行者のためだった巡礼が、庶民にひろがる。
江戸時代は移動の自由は制限されていました。旅行の口実には、寺社まいりや巡礼が、お手軽な手段でした。
信仰が厚いというより、寺社まいりの楽しみは、帰りの精進落としのご馳走、男性ならあちらの楽しみ、が目的であったようですね。
四天王寺は天台宗の末寺でもありましたから、真言宗の弘法大師とは疎遠であるはずです。しかし、流行に乗ってなんぼ。彼岸つながりの21日で、えじゃないか。
聖徳太子を疑う、半端な実証主義のおかげで、日本人のタマシイから和の精神が失われてゆく。
亀井水の幾何学的設計と太陽礼拝のロケーションを見なさい。
聖徳太子は、ここからよみがえります。