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近つ飛鳥博物館の館内展示の四天王寺模型には、当然のごとく亀井水はありません。近年の四天王寺特別展でも言及はないようです。

見出し写真は、河南町HPより。
近つ飛鳥博物館。

四天王寺模型
昔私が撮影したもの
令和6年特別展、四天王寺
色はきれいになったが、変わりない

大阪府太子町と河南町の境目にある、近つあすか博物館に展示されている、創建時の四天王寺の再現模型。

亀井水など、気配もない。

実際に見たとき、しかたないなあ、とためいきもらしました。

これが、学問的定説です。

定説といえば、田村圓澄さんの、四天王寺は難波の吉志氏の氏寺説。これもまだ根深い定説として流布しています。

四天王寺は聖徳太子を利用しているだけだと。

水の信仰を四天王寺の本質とする見解は、検討にも値しない妄想と、多くの人が思っているでしょうね。


重要問題再度


💓覚悟して、眉につばをつけて、熟読してください。

この図面をいきなり提示したら、たんなるアホウと、無視されたでしょう。

予備知識を積み上げたうえで、やっと公表いたします。

🐢斉明天皇は、皇極天皇としてクーデターで失脚したあと、難波宮の時代を難波ですごされた。当然、四天王寺にもしばしば訪れ、亀井水も注意深く観察されたでしょう。
そして、飛鳥に帰り、斉明天皇として再起され、飛鳥の都に、酒船石や亀形水盤を作られた。当然、四天王寺の亀井水を見習われたものであることは、全体の構造や寸法が一致することからあきらかです。

🐢飛鳥の酒船石の図を、四天王寺の境内図に重ねてみる。

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なぜこんなことを考えたか。酒船石の中心の長円が、亀井と同じであり、縦横比率が同じ2対1である。

全体が左右対称であるのに、中心から右上に出る溝が例外である。しかも、現地で確かめたら、この方向からあの亀形水盤が発見された。

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そこで、酒船石の中心の長円を、四天王寺の中心伽藍に合わせて重ねてみると、右上の溝と円が亀井水に重なる。

さらに、左右に枝分かれした溝と円の位置に、太子殿前の井戸、萬灯院前の井戸が示される。

右の溝の上に、普賢菩薩の井戸、戦前まで調理場であった炊屋(井戸があったはず)あとに建てられた宝物館が重なる。

左の溝の上に、休憩所の井戸、すこし延長して地蔵山の井戸がある。

さらに広域的には、右の溝の先には、毘沙門池という広大な池があった。

左の溝のさきの範囲内に、天王寺七名水が集中している。

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結論。

酒船石は、四天王寺の導水施設の設計図を、デザインしたものである。

酒船石遺跡全体が、四天王寺の理念を再現したものである。

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いかがです。とんでもない仮説です。

眉につばを、たっぷりつけて、投稿します。ヤバイ国沖縄説よりも、危険な冒険です。

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