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"そうであったかもしれない"人生に想いを馳せる|映画『パスト・ライブス/再会』

東京発、福岡行きの飛行機。飛行時間から計算すると、今は四国の上あたりを飛んでるだろうか。遠く下に光る街の夜景をぼんやりと眺めながら、私は残りわずかしかない充電の携帯で音楽を聴いていた。

Norah Jones『Don’t Know Why』
I waited 'til I saw the sun
私は待っていた、太陽が昇るまで
I don't know why I didn't come
どうしてかは分からない、なぜ私はそこに行かなかったのか
I left you by the house of fun
楽しかったあの場所にあなたのことは置いてきた
I don't know why I didn't come
どうしてかは分からない、なぜ私はそこに行かなかったのか
I don't know why I didn't come
どうしてかは分からない、なぜ私はそこに行かなかったのか

最終便の機内は、今日という日を終わりに向かわせる乗客たちで、しんと静まり返っている。そんな空間で、ぼうっと色々な考えに耽る時間が好きだ。

夜の飛行機では、思考が普段よりも一層自由になれる。スマホは機内モードに設定しているので、余計な通知や時事ニュースに思考を邪魔されることもない。普段から脳内で色んなことをこねくり回して考えるのが趣味の私にとって、"完全に普段の世界とは切り離された空の上"では、この上ない至福の時間を味わえるのだ。この2時間私は究極的な一人ぼっちで、世界に存在するものは自分と自分自身の思考のみ。

これを、村上春樹の『1Q84』で牛河が行っていた「頭の半分で音楽を流して、頭の残り半分では大きく窓を開けて、芝生の茂る広大な丘で思考を自由に走り回させてやる(意訳)」作業に準えてみる。

最初はまず、空を見渡したり辺りに茂る芝生を前足でおずおずと踏んで様子を見るところから。緑を踏みしめる感覚に少し慣れてきたら、ちょっと離れた場所の木まで行ってみる。そして木の幹や葉っぱの調子をしばらく眺めたら、次は離れたあのお花畑まで。次はもっと足を伸ばして、あの丘の向こうにある家までーー。次々と訪れる好奇心に任せ、広大な丘を自由に・縦横無尽に走り回っているうちに、最終的には想像もしていなかったような景色にまで辿り着くこともある。

私の思考の犬は、こうやって社会生活とは切り離された自由な脳内空間で少しだけ元気を取り戻す。


さて話は変わって、今回私がなぜ東京へ行っていたかというと、来月から住む物件の内見と転職の面接の2つのためだった。今日は朝から物件を4件見て、その中で気に入った家の契約手続きを進めて、夕方に面接を受けた。しかし転職の面接は昨日今日どちらもあまり手応えはなかった。それに正直に言って、自分が「企業に所属して正社員として働く」生活に戻りたいと思っているのかどうかもよく分からない。まだやりたいことも残っているし。

計画性もなく進んでいく人生。

飛行機という社会から一つ切り離された場所から街を見下ろしていると、自分の人生についても改めて考え直してみたくなる。

一番に思うのは、人生は選択の連続であるということ。

あの言葉をかけていたら、あの人は離れなかったかもしれない。
あの面接であの話をしていたら、あの会社に受かっていたかもしれない。
あの誘いに乗っていたら、今頃私は全く違う人生を歩んでいたかもしれない。

小さな選択ですら、時にあまりにも大きく自分の運命を変えてしまう。「自分が選ばなかった方の人生」を考えると、選択というものの重さに圧倒され、混乱し、その場から動けなくなってしまうようにも感じる。


最近観た映画に『パスト・ライブス/再会』(2023)という作品がある。アメリカ・韓国合作で製作された映画で、海外移住のために離れ離れになった幼なじみの男女2人が、24年の時を経てニューヨークで再会する7日間を描いた物語だ。

出典

【あらすじ】
韓国・ソウルに暮らす12歳の少女ノラと少年ヘソンは、互いに恋心を抱いていたが、ノラの海外移住により離れ離れになってしまう。12年後、24歳になり、ニューヨークとソウルでそれぞれの人生を歩んでいた2人は、オンラインで再会を果たすが、互いを思い合っていながらも再びすれ違ってしまう。そして12年後の36歳、ノラは作家のアーサーと結婚していた。ヘソンはそのことを知りながらも、ノラに会うためにニューヨークを訪れ、2人はやっとめぐり合うのだが……。

12歳からアメリカに移住したノラと、韓国や中国で暮らしてきたヘソン。24歳の頃に一度また繋がるかのように見えた縁は、ノラの選択によって断たれることになった。

そして36歳。ヘソンは彼女との結婚に悩み、心の片隅にいたノラへの縁をたぐり寄せてNYにまで彼女を訪ねてやってきた。しかし、ノラはユダヤ人男性と結婚し子供はいないものの穏やかな生活を営んでいる。

2人はNYの街を歩いたり船に乗ったりしながら、昔話をしているうちに人生の「あり得たかもしれない選択肢」に惹かれていくことになる。夜ノラの夫と3人で訪れたバーで、ヘソンは以下のように笑って問いかけた。

「君がもしソウルを去らなかったら、僕たち付き合ったかな?結婚していたかな?子供を持ったかな?」

ヘソンの言葉に、ノラはただ「分からない」と答えた

結局映画の最後で、ノラとヘソンは再び別れる道を選択する。彼らはまた再会すべきだったのだろうか?それともまた出会うことなく、元の人生を続けていた方が幸せだっただろうか?


私たちは自分自身の選択を、運命をどのように捉えるべきなのだろうーー
それについて考えるとき、私の頭の中には常に以下の考えが順に浮かぶようだ。

①基本的には、人の運命は大方決まっていて、私たちはそこに向かう道を選択しているに過ぎない
②それでも「あの小さな選択で自分の運命は大きく変わったのではないか」と考えたりもする
③しかし↑について考えることは非常に空虚で、情けない娯楽であることを自覚している
④それに人生の選択について考えるとき、自分自身の選択ばかりでなく他人の選択についても考慮に入れるべきである
⑤結果、運命そのものにおいては不可知論者になるしかない

以下では②以降の考えを、少しかいつまんで説明してみる。

聴いていない音楽
訪れていたかもしれない土地
結婚していたかもしれない人
あり得たかもしれない人生の道……。

映画『パストライブス/再会』で、ノラとヘソンが悩んだように、時には自分が選ばなかった方の選択肢について、疑念的な目で考えざるを得ないのが人間である。

しかし、それらの過ぎ去った選択肢に思いを馳せてエモい気持ちになるのは、なんの責任も持たない短絡的な娯楽であるとも思う。起こってい「ない」ものに思いを馳せることはすこぶる簡単で、自分は一ミリも傷つくことがない。ひたすらに甘いエモさの消費である。だって「ない」のだから。そこには情けなくも、何も生まれない空虚な抜け殻しか残されていない……。


それでも、人間関係における「選ばなかった方の人生」については、そう簡単に割り切って考えられるものではないということも、分かっている。

今まで生きてきた中で、自分の未熟さによって他人のことを何度も傷つけてきたし、自分自身も少しばかり傷ついてきた。特に昔の恋愛や好きだった人のことを想うと、今でもそれに付随する色々な考えが浮かぶ。決して修復できない関係にこそ"何か"があったのではないかと思ってしまうのだ。

そうやって、過去の自分が守りきれずに切ない思いをした友人関係や恋愛関係もあれば、時には自分自身を守るために必死に振り払ってきた関係もある。しかし、ふと思った。それらは私が必ずしも主体的に振り払ってきたわけではないかもしれない。彼らも私を振り切ったのだーー

人生の選択について考えるとき、私たちはついつい自分自身の選択ばかりに目を向けがちだ。「自分自身の選択によって何かが変わったのではないか?」と。しかし特に人間関係において、過去の出来事には自分の選択だけでなく必ず他者の選択も存在している。

だからもしかすると、自分の選択によって何かが変わったかもしれないと嘆くのは、ある意味自己中心的で傲慢な行為なのかもしれない。自分の選択で何かが変わったかもしれないと思うシチュエーションでも、実は裏で他者の選択の方が大いに介在していたこともあり得るだろう。他者の選択を最大限に尊重しようとすると、「あり得たかもしれない」人間関係の運命について考えること自体野暮なようにも思えてくる。


さて、運命というものは結局決まっているのだろうか?
もしくは自分自身のもしくは他者の選択によって、未来というものはガラリと大きく変わるものなのだろうか?

どうなのだろう。分からない。

しかし、人はその分からなさを抱えて生きていかなくてはいけないのだ。

近代哲学の"ゲーム・チェンジャー"となったカントは、「われわれ有限な人間には物自体は認識不可能であり、認識可能なのは現象界だけだ(=不可知論)」と考えた。簡単に言うと、それまで神の存在について多く議論していた哲学界において「どんなに議論してもそういった神のようなものの存在の有無は、人知を超越しているのでその問題は扱わない(≠無神論)」と主張した哲学者だ。不可知論では、神の存在は人間の個人的な問題にはほとんど影響を与えず、ほとんど関心を持たないはずだとも言う。

ここでもう一度、"そうであったかもしれない"可能性に想いを馳せる。

あの選択は正しかったのだろうか?
そもそも、選択は運命に影響を与えるのだろうか?

それらはどう足掻いても、有限な人間には決して分かり得ないものなのだ。これまでも、これからもずっと。こうなると、私たちは再び広大な丘に投げ出されてしまうようだ。しかし神が、そして神が司る"運命"が自分自身の個人的な問題に関心がないというのなら、私たちはせいぜいこの丘で走ったり転げ回ったり、時には休んだりして自由に遊んでやればいい。


そうこう考えている内に、飛行機は福岡空港への着陸準備を進めていた。雲を通り抜け、機体はぐらぐらと揺れる。

スマホの充電はとっくに切れていたけれど、Norah Jonesの曲のフレーズがずっと脳の半分の領域で流れ続けていた。

My heart is drenched in wine
私の心はワインで酔えたと思ったのに
But you'll be on my mind Forever
あなたはまだ私の中にいる、永遠にずっと

Something has to make you run
きっと何かがあなたを変えてしまった
I don't know why I didn't come
どうしてかは分からない、なぜ私はそこに行かなかったのか
I feel as empty as a drum
貴方を失って私の心には、ぽっかりと穴が空いてしまった
I don't know why I didn't come
どうしてかは分からない、なぜ私はそこに行かなかったのか

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