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「発願」ー柳田國男と大江健三郎

 「未曾有」の三文字をまさか体感することになろうとは思いもしなかった。
 この一語を自分自身で意識的に使ったのは高校一年の夏だった。夏季課題でもあった読書感想文コンクールに応募すべく選択した井伏鱒二の『黒い雨』について作文用紙に文字を並べていた時、小学生の時の漢字練習で覚えたこの三文字を鉛筆で書いたことを明瞭に覚えている。近代の歴史において最も無残で非道な広島への原爆投下をめぐる傑作を評するにこそふさわしい単語を、のどかかに戦後を生きていつのまにか還暦を過ぎた人生のこの局面で使うことになるなど全くの想定外だった。
 小学校から大学に至るまで教育の場が無策無謀にも三か月以上にわたって閉鎖された。人々は往来を自粛するよう求められ、面談することさえ憚られる世情となった。大恐慌も二度の大きな世界規模の戦争も形而上のものでしかなく、長男家族が巻き込まれ一時ながら混乱憔悴したついこの間の大震災でも、このたびのような「無明長夜」という親鸞の遺した仏教語で代弁するしかないような感覚には至らなかったように思われる。新たな生活様式、などというお題目が幅を利かせ、その制限下でなおしばらくは息苦しく日々を重ねなければならないのだろう。
 そんな現況のなかであらためて胸の奥底から湧き出てきたのは自我に目覚めた頃からずっと支えにしてきた大江健三郎から教えられた柳田國男の言葉だった。
 昭和三十一年(1956年)生まれのぼくにとって大江健三郎は、自我に目覚めた頃すでにして大作家だった。中学校の国語の教科書に折り込まれていた文学史年表の近現代は坪内逍遥から始まり大江健三郎で終わっていた。三島由紀夫が割腹事件を起こし、北杜夫の『少年』がベストセラーだった頃、年表に並んでいた『飼育』、『万延元年のフットボール』ではなくタイトルに惹かれ『個人的な体験』を学校帰りに行きつけだった書店で買い求めて、その日のうちに夢中になって読破した。興奮冷めやらぬまま物語の最後のくだりにあった「希望」と「忍耐」という語をかみしめながらすっかり主人公である「鳥バード」と一体化してしまっていた当時の感覚は今なお鮮明である。
 すぐに新潮社から出ていた全作品6冊を母にねだり、巻末エッセイも各巻ごとの月報もすべて読み通した。その読書経験が、そのままぼく自身の文学の学校となった。
 大学に入り必修だった中西進教授の「万葉集」の教室に大江夫人が聴講生として毎回出席されていた。そのご縁で中西先生に仲介をお願いして大学3年の秋の文化祭に所属していた「万葉集研究会」主催講演会の講師として大江氏を招聘した。大学からご自宅まではほんのわずかな距離ではあったが父の車を借りて送迎し、講演会では司会進行をつとめた。ご自宅までお迎えに上がったとき、降車してドアを開ける間もお与えくださらずご自身で助手席のドアを開けられ着座され、さあ、行きましょうと仰ったときの笑顔が忘れられない。
 講演は現代文学の根っこのところには古典文学の伝統が古層として息づいているということを古事記、万葉集から、大江氏の恩師、渡辺一夫のラブレーに関する業績にまで触れつつ語られたもので、氏の教養の深さをさりげなく披歴される誠に興味深い内容だった。
 大江氏は、おそらく大学での講演であることを意識されてのことだろう、締めくくりに民俗学者柳田國男の「美しい村」の一節をひかれ、学生として堅持すべき姿勢について語られた。それは柳田國男が晩年を過ごし、大江氏が居を構える大学の名前でもある「成城」という街をめぐるエピソードだった。
 あらためて説明するまでもなく成城は、田園調布と並ぶ東京郊外の、そこに住まうことが一種のステイタスになった住宅地である。その街づくりの最初の頃、柳田國男は美しく街が育まれるよう家々の垣根に桃や李を植えるよう提唱し理想郷の実現を切望した。しかし当時の日本は発展が遅れているから小さな街といえども国土の創生は難事業であるだろう。それでも一代でそれが実現しないからとの理由で諦めてはならない。大切なことは「発願」、すなわち皆でそれを実現させようと願いを立てること、そしてそのための努力を持続させることだと小文に記した。その願いは街の約束事として暫くのあいだ受け継がれ続けた。
 ところがその後の日本は民俗学者の予想をはるかに超える発展を遂げ、開発が急で技術が進みすぎて、垣根に桃や李という願いは、別の理由で難事業になってしまった。成城という街自体が高度経済成長の勢いのなかで、先に記したようにある種成功の象徴たる住宅地となって、そっと受け継がれていた古くからの約束事は反古となった。壮麗な白壁の豪邸が建ち並び始め高級感あふれる華麗さを生み出すばかりで「美しい村」と呼ぶべき佇まいとは縁遠くなってしまった。
 大江氏は、そうした環境下、柳田國男の志を引き継ごうと努力を重ねておられる様子で、なるほど送迎で立ち寄らせていただいたお住まいは、その想いを具現化された構えだった。
 学生の皆さんに「美しい村」を実現せよとは言わない。しかし、柳田國男が遺した「発願」という語の重さは誰にも等しくあるべきものだ。学問も人生もつまりは同じ。大切なことは強くそうしたいと願い、その実現に向けて努力すること、「発願(ほつがん)」である。憧れの存在が静かに語る姿を進行役として後ろから拝して深く受け止めたその言葉はぼくにとっての信条となり、座右の銘となった。
 その後、作家大江健三郎は講演でも少しく触れたウイリアム・ブレイクの詩篇を主題に『新しい人よ目ざめよ』にまとめられる短編を次々と発表された。物語は『個人的な体験』で主人公が決意をもって引き受けた長男の個としての自立を親として一抹の寂しさを看取しつつ体感する瞬間が掉尾を飾る連作である。ぼく自身は、この作品を長男の誕生とともに読み進めた。後年大江氏は、小説のモデルでもあるご長男のピアノコンサートに先立つ講演で、いかなる困難が時代を覆うとも、その時、必ず「新しい人」が顕れ力を尽くすものだと確信していると語られた。個人的には「発願」とともに「新しい人」という大江氏に与えられたイメージがずっと重要な人生の指針となり、ぼくの教員生活を支えた。
 毎夜、いつまでも根拠希薄な情報発信を繰り返すニュースを避け、大江健三郎に学んだそうした叡智を反芻しながら、大江氏と同い年の小澤征爾がサイトウ・キネン・オーケストラを振ったマーラー2番交響曲『復活』のライブ録音を聴きながら、いつとは知れない夜明けを待っている。                 (鎌倉ペンクラブ No.25 2021年8月)    注: 画像は1978年11月3日 講演会後の中西進先生、大江令夫人、大江健三郎氏を筆者が撮影した一枚。

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