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『ユリシーズ』格闘記

 そもそもの出会いは伊藤整だった。中学の終わり頃、『若い詩人の肖像』にいたくこころ震わされカッパブックスの『文学入門』から始まって、『小説の方法』や『知恵の木の実』など、漱石系譜と文学史的に位置付けられていた小説より、評論、随筆などを偏愛した。ついでその頃の旺盛な好奇心と興味関心から翻訳の業績のひとつであった『チャタレイ夫人の恋人』に向かい、『若い詩人の肖像』の本歌と称すべき『若き芸術家の肖像』にたどり着き、これは丸谷才一訳で読んで、20世紀の巨人のひとりジェイムズ・ジョイスと対峙することとなった。高校2年の秋だった。当時神保町で見つけて自室の書棚に並べて悦に入っていた50冊本新潮社版世界文学全集の21巻22巻が伊藤整・永松定共訳の『ユリシーズ』で、結果的にそれほどの間を置くことなく20巻目の伊藤整訳『チャタレイ夫人の恋人』から3巻続けての初読となった。
 高校生の自分が『ユリシーズ』の何が分かったつもりでいたのだろう。読了したという自負心だけが満たされたのではなかったか。ちょうど高校入学の秋から配本が開始されていた円地文子の『源氏物語』の10ヶ月かかって最終巻にたどり着き、その完読に感激していたばかりの時と重なり、内容理解より大作2作品が自らの読書世界に加わったことに浮かれていただけのように思われる。余談ながら、あとはプルーストだと浅慮し、ジョイスの内容吟味もままならないまま、しばらくの後やはり神保町で新潮社版『失われた時を求めて』淀野隆三・井上究一郎訳全7巻の箱入本を購入したものの、初読は大学受験を言い訳にして中途挫折したことが懐かしい(なお同書完読については自分自身のnote初発時に連投した)。
 17歳ながら、物語がスティーヴン・ディーダラスの朝8時から開始し、彼とともに昼まで過ごし、第二部になってレオポルド・ブルーム宅に舞台が移ってやはり午前8時から描かれていることは理解した。そして同じように昼になり、そのまま視点移動なくブルームとともに時間を過ごし夕方5時頃あたりで一冊目が終わる。2冊目になっても場面はブルームの身辺から離れず、話題はどんどん難解になって20時過ぎくらいから医学生の宴会に加わり、そこでやっと物語開始時に付き添ったディーダラス再登場、合流してみんなで別の酒場へと移動する。そのあたりからはなんだかますます語られていることの混沌が深まり、場面は娼家街となってスティーブン・ディーダラスがイギリス兵に殴り倒され、ブルームが介抱する。喫茶店経由でブルームは自宅にディーダラスを連れて行く。伊藤整訳は、そこから鷗外の『舞姫』のごとき雅文体となって、家に入ろうにも鍵がなかったりして、ゆえに柵を乗り越え地下に降り台所に回ってディーダラスを招き入れる。ふたりしてウィスキー入りココアを飲んで庭に出て彗星を眺め連れション(表現、失敬)して、ディーダラスはブルームの誘いを断り帰宅する。時刻は午前2時を過ぎている。ブルームはベッドに入って妻モリー以外の存在の臭いをシーツに嗅ぎつけ、嫉妬し、諦念し、平静になって彼女のお尻(メロンと記されている)にキスする。ずっと難解な自問自答の応酬である。そして最後は、ベッドで目を覚ました妻モリーの、延々と句読点ひとつなく続く独白。彼女は、夫であるブルームとの来し方を思い出し、午後の情事を思い返し陶然感に浸りながら、また帰ってしまったスティーブン・ディーダラスと親しくなりたいと切望する。あれこれ去来する思いの中でブルームの優しさを再確認しながら、かつてプロポーズされた日にyesと応えた自分自身を振り返り、その時のyesを現況に重ねて夫であるブルームを思い、ダブリンの1904年6月16日朝から翌深更にかけての長い物語が終わる。
 このように登場人物と1日の出来事を把握し、追いかけることは高校生でも可能だったし、50年経った今でも誦んじている。しかし、それで『ユリシーズ』が分かったなどとは、とても言えない。そもそも下敷となっているホメロスの長編叙事詩『オデュッセイア』への理解がまるでない。神学の知識など皆無だし、パロディの原典を想起などできるはずもない。伊藤整が共訳で、さまざまな文体で原文の日本語化を実行しているが、なぜそうするのか見当もつかなかった。初読、疑問符満載のまま、20代になってから河出書房の世界文学全集のうちの2冊、丸谷才一、永川玲ニ、高松雄一訳を端本購入し、再挑戦して、ほんの少し理解を進めたが、やはりホメロス、神学など読解のための基礎知識は深まらないまま。『ユリシーズ』は、結局、英語英文学に熟知しなければ本当の意味での理解は遠い遠い夢の果てと自分自身に言い聞かせるしかないままにして、1997年の丸谷才一、永川玲ニ、高松雄一集英社版新訳決定版を購入し、3度目の挑戦に臨んだが、難解さ益々深まって、年齢重ねた分、これは分からないということが、しみじみ分かったことだった。
 そう自分なりに決着していたにも拘らず、このたびのハン・ガンさんノーベル文学賞で英語ではないが 翻訳問題に深く思いを致して、書棚奥で埃にまみれた3セット7冊を並べて、翻訳業績、というより文化遺産の恩恵を堪能してみようと悪戦苦闘の時間を楽しんでいる。英語をきちんと身につけられないまま人生の第4コーナーに突入した身としては、ジョイスの何たるかはついに究められないこと確定である。それをしかと受け止めた上で偉大な翻訳者たる2人の文学者の足跡に寄りかかっての20世紀金字塔の魅力の一端理解を実現できればと思い至り、かかる発信をする次第である。
 それにしても、伊藤整、丸谷才一の教養、知見の無辺大さ、なんたることか。山より高く、海より深い、と称揚するしかない。嗚呼、、、。

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