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斎藤 光 「幻の『カフェー』時代 夜の京都のモダニズム」

この記事は「積読チャンネル非公式 Advent Calendar 2024」の12日目の記事です。昨日の記事はとーはるさんの「「なぜ」 「どうやって」 本の感想を書くのか」です。明日の記事は降水確率さんの「読書BGMとしてのアンビエントミュージック」です。

❤️カフェー❤️

音引きが入った途端に意味が色っぽくなる言葉です。Wikipediaには カフェー (風俗営業) として立項されています。

かつてカフェは文学芸術思想などを語り合う、文化的なサロンであったと言われています。日本最初の喫茶店である可否茶館も、知識の共通の広場となる社交サロンとして開業しました。その後もミルクホールや大衆喫茶など、様々な業態でコーヒー店は増えていきます。カフェから派生した「カフェー」もそのひとつです。

カフェーは水商売でありながら文化的なサロンの尾をひいています。そこに至るまでの、ただコーヒーを運ぶ給仕でしかなかった女性が「女給」として商品化される歩みは、京都ではいくらかゆっくりと、東京や大阪とは違う流れで進んだようです。

可愛い女の子がいる店に通ったことはありますか。たとえば大学そばのコンビニに可愛い子がいると、同級生と噂をしたことはありませんか。コンビニなら大過ありません。レジ係が美少女でもマッチョでもおにぎりはおにぎりです。値段も味も変わりません。けれど誰かが可愛い彼女に商品価値を見出して、その可愛さをお金にしようと企んだら、彼女はどうなってしまうのでしょうか。



1908年、元禄時代から続く和洋菓子店である鎰屋は、寺町通の店の二階に「鎰屋茶寮」を開業した。

鎰屋は三高生が寄る唯一のコーヒー店だった。綺麗なメッツェン……がいて、彼女目当ての三高生もすくなくなかった。

P60

メッツェン(Mädchen)はドイツ語で少女、女の子を指す。鎰屋茶寮は京都の最も古いカフェのひとつであり、戦前いっぱいまで三高生(京大生)のたまり場だったという。

女給目当てのカフェ通いに火をつけたのはメディアだった。

「カフエー女給人氣投票」女王の栄冠を戴くものは誰?

中略

眞に彼等女給仕こそはカフエーの中心話題であり、興味の中核である。我社は茲に見る所あり凡ゆる意味に於て人氣を呼びつゞある女給仕の投票を募り、傍彼等の生活や、ローマンスを紹介してカフエーの新話題を作りたいと思ふ。

P82 1922年7月22日 京都日日新聞


当時のカフェはまだ取り締まりの対象となる風俗営業ではなかった。堅気のウエイトレスが客に勝手に品評され、投票結果が新聞に載っている。動機は「新話題」、全くの興味本位である。「小鳩のように愛くるしく、燕のやうに軽敏な女給仕があって初めて我々は慰安の悦楽に浸り得る」褒めればいいというものではない。

現代では炎上しかねないこの企画は大成功をおさめた。上位3位までの得票数は10万票弱、ちなみに京都市の人口は当時67万人である。1位の女性は受賞後に贔屓筋に挨拶して廻り、記者が撮影を求めると予めプリント済みの写真を用意するなど、素人離れした行動をとっている。既に水商売だったのかと思いきや、女給の紹介記事では「バイオリンが巧い」「明るい文化的の顔」などと育ちのよさをにおわせる紹介が目立ち、「水商売で恥ずかしい」と語る内気な女性もいる。微妙な立ち位置だったようだ。

時代は移り、ある集団が都会の喧騒を京都に持ち込んだ。関東大震災で撮影所を失った映画関係者である。映画は当時の主要な娯楽産業であり、東京が壊滅しても地方への配給は止められない。大手の制作会社はこぞって京都に本拠地を移し、制作をつづけた。彼らが集まったのが、ジャズバンドが演奏するダンスホールを持ち、西洋料理を出す、カフェー・ローヤルである。ダンスとジャズはカフェーで大流行し、他店も追随したが、これが風紀を乱すとして取り締まりの対象となった。

やがて大阪の大資本が経営する大型店「美人座」の京都支店である「祇園会館」が開館する。祇園会館は「美人座ヒリツピンジヤズ団演奏」をうたい、「キャバレー」を自称していた。女給の求人広告には「近日開業百名入用素人もよし」。飲食店の体裁をとりつつ、客は女給の接待を目当てとし、身を寄せ合ってダンスを楽しむ、いわゆる水商売の形態である。三高生をときめかせた綺麗なメッツェンとは隔世の感がある。

1933年には東京では「特殊飲食店営業取締規則」、京都では「カフェー営業取締規則」が制定され、女給が接待するカフェーと喫茶店は区別された。ただ可愛い女の子を目当てにコーヒーを飲む場所から、接待やダンスに発展し、風俗営業として取り締まりの対象になったカフェーは、売春の温床になりかねない危うさを含むようになった。「カフェー」に内包される世界は思いのほか幅広く、その背後にはジャズが流れている。

話は戻るが、森鴎外はドイツ留学の経験をもとに「舞姫」「うたかたの記」にカフェを登場させている。時代は1890年、日本でカフェについて記述した初期の事例となった。鴎外のクズ男っぷりには定評があり、私も教科書で「舞姫」を読んで憤慨した中学生のひとりだったが、描かれた世界が美しくないかと問われたら答えられない。

映画監督の溝口健二は、カフェーで得た「慰安の悦楽」をエッセイに残している。溝口もまた震災で東京のスタジオを失い、京都のカフェーレーベンにいた。壁には前衛画家普門暁の油画がかかっており、絵に見入っていると音楽が流れてきた。紅茶を飲み、煙草をくゆらせ、色彩と音楽に包まれて、地震以来はじめての幸福な気分が押し寄せてきたという。溝口は同じ曲をもう一度かけるよう女給に頼んだ。ビゼーのカルメンだった。

溝口は生涯京都で制作をつづけた。日本画家の甲斐荘楠音を時代考証家として映画界に引き込み、「雨月物語」でヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞するのは、まだ少し先のことだ。

詩情とエロスと人権の絡み合いはややこしい。胸糞が悪い美しいものはたくさんある。「そういう時代もあった」と線を引いて棚に上げよう。


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