彼らを大切にするもの
私の家からは高校が見える。
体は大人のように成長した彼らは、しっかりと並べられた机に座り、毎日みんなで同じ方向を向いて学んでいる。
なんとも愛おしく可愛らしい光景だ。
忙しい日々が続き、仕事に続く仕事で、日常の些細なことや、かけがえのないことが見えなくなっていたとき、赤ちゃんができたことに気が付いた。
一生懸命働いてきて、ある程度仕事も信用して任せてもらっていたときだった。
妊婦様って言葉があったり、他の人に迷惑はかけられないと、つわりが始まっても少しの間頑張った。
彼や母からは、休みなさいと、赤ちゃんが一番大事だからと何度も説得された。
無理はしないでと声をかけてもらいつつ、無理をしない程度がわからなくて、ひとまず一生懸命やってみた。
でもやっぱり無理な時がやってきた。
仕事を休む、誰かに迷惑がかかる、なんともやるせない気持ちになった。
自分の自信を支えてきたものは仕事であったから、なおのこと頑張れないことを恥ずかしく思った。
家で泣く泣くベッドにうずくまり、つわりの辛さを耐えながら、仕事への迷惑を考える。
計画して妊娠をすることが無理なことは、生命の摂理として全人類が知っている。
でも、どうにか予定通りというものに押し込めて自分を納得させられなかった私を自分で責めてしまう。
そんなとき、1人の学者の話を聞いた。
元々、彼が好きな学者の人だった。
結婚すること、子供を持つことは想像していたよりはるかに幸せなことだと、そのことを日本教育は教え込んでこなかったから、現在少子化の波に飲まれていると語っていた。
確かに私は、1人でいるときには想像できなかったような幸せを結婚して味わっている。
帰ってきて、部屋が暖かい。私に常に話しかけてきてくれる人がいて、何度も私の名前を呼ぶ。うるさいと拒否しても、何があってもそばにいてくれる。そんなわがままな幸せがこの世にあったのかと、彼がぐーぐーと寝る横でほっとしながら感じるのだ。
それはきっと独身の時には想像し得なかったし、言葉だけではなかなか想像もできないような、当の本人にしか分からない、なんとも温かな感覚なのだ。
それがまた子供を産むと波のように押し寄せるらしい。
なんてこと。
楽しみじゃないか。
私は何に悔しく、やるせなくなっていたんだろうか。
そんなものどうでも良くなるくらいの幸せが私を待っているらしい。
子どもの頃からお嫁さんになりたくて、母になりたくて、そんな凡庸な夢はなんともなと思い、なかなか口には出せなかったけど、確かに私の夢はそれだった。
小さなころはきっと、その幸せがなんとなく想像できていたように思い出す。
目の前に広がる世界に対し、素直でなかった自分によって、私のしたいことがわからなくなっていたことに気がつく。
女は働いていく、育児と仕事を両立することが正しいと世間の波は話しかけてくる。
そんなものくそくらえ。
私の幸せは私が決めるのよ。
そんな当たり前のことがわからなくなるほどに、私の見栄は張り巡らされていたらしい。
はっとして、すぐ赤ちゃんにごめんねと言った。
きっと私の心のぐらつきは今後も赤ちゃんに伝わるのだとはっきりと感じた。
あなたが生まれるそのことを全肯定することが、私にできる初めの役割だと思う。
今気が付けてよかったよ。
窓を開けると高校生たちは一生懸命勉強している。
彼らを大切にする人が無数にいることを想像し、また嬉しくなった。