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「境界」とは幻想に過ぎない 吉村昭/文藝春秋BOOKS「本の話WEB 文庫3冊で読む作家」
あれは今から15キロほど体重が少なかった若かりし頃、すでに夏の終わりを迎えていた北海道を僕は独りオートバイで野宿旅をしていた。とある道央の山中の無料キャンプ場に到着し、テントを張り、日暮れとともにテント内で文庫本を開いた。吉村昭の『羆嵐』(新潮文庫)。北海道が舞台というだけで何気なく持参した小説だったが、大失敗だった。北海道の山村で村人が羆に襲われ食い殺されるという話であったのだ。そう、僕がいるのは北海道。そして山中僕独り。外界と僕とを隔てているのはテントの薄い幕一枚。
その時初めて気付いた。闇夜で一番怖いのは幽霊ではなく獣だと。
かすかな物音にも緊張が走り、結局明け方まで眠れずに過ごした。
これが僕と吉村昭の小説との出逢いであった。
四度の脱獄を実行した無期刑囚
『破獄』 (吉村昭 著/新潮文庫)
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『破獄』(新潮文庫)は戦前から戦後にかけて、刑務所から四度の脱獄を実行した無期刑囚佐久間清太郎と、脱獄を阻止せんとする看守らとの攻防を描いた傑作。
主人公佐久間清太郎は脱獄の天才だ。不可能を可能にする男。あの極寒の網走刑務所で史上初めて獄中から抜け出した男。しかも脱獄するぞと宣言し、嫌いな看守が責任を負うように、その看守が担当の時にわざと脱獄するという底意地の悪さも見せてくれる男。
それにしてもだ、このような脱獄の天才は、その才能が開花するのが刑務所しかないというのがなんともやりきれない。また、この佐久間と言う男はなんとも人付き合いが不器用で、けど情に脆く、無期刑囚なのにいつしか次はどんな脱獄を見せてくれるのかと期待してしまうほど魅力的だ。看守たちは脱獄させぬように、特注の手錠、足錠をし、独房も強化するものの、容易く脱獄してしまう佐久間。
その佐久間を脱獄させなかった唯一の方法、これが泣かせる。
戦中、囚人を船舶建造に動員させたり、配給制度下では一般社会よりも多く米を食べられていた網走刑務所の食料事情など、当時の刑務所事情にも興味が尽きない。痛快なれど、戦中の厳しい情勢下でありながら看守たちの責任と仕事への誇り、囚人とはいえ人間の尊厳など、胸を打つ物語である。
難破船の積み荷が漁村にもたらした災い
『朱の丸御用船』 (吉村昭 著/文春文庫)
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『朱の丸御用船』(文春文庫)は江戸末期、難破した幕府の御用船から米を盗み出したことで、平穏な漁村に狂いが生じてくるという、実際の騒動を描いた歴史小説。
習わしで、村の沖で難破した船の積み荷は自分たちが貰ってよかったのだ。
いつもとほんのちょっと違うのは、その船が幕府の御用船だっただけ……。
という、シンプルプランが雪だるま式に大事になっていくという、時代小説版クライムノベル。
漁村という、独自の掟や習わしで保たれた村社会に、外界から災いが侵入したことで恐慌をきたす村人たちに何とも言えない物悲しさを感じてしまう。
また騒動の発端となる御用船難破にまつわる船乗りの苦労や、運航管理、不正防止策など当時の海運事情も詳細に描かれ興味が尽きない。
終盤、騒動発覚から、代官所の捜査にかけて一級の犯罪小説の体を成して行き物語が一気に突き進む。
これ映画化したほうが良いと思います。
死は軽い挨拶のように容易に訪れる
『星への旅』 (吉村昭 著/新潮文庫)
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『星への旅』(新潮文庫)は先の歴史小説二作とは打って変わって吉村昭初期の小説を編んだ短篇集。
若者たちが自殺をする為に旅にでる表題作「星への旅」、将来を期待されたボクサーの死とその原因を探る「鉄橋」、著者自らの空襲体験を元にした「白い道」。
そのなかで強烈な印象を残すのが「少女架刑」だ。
“呼吸がとまった瞬間から、急にあたりに立ちこめていた濃密な霧が一時に晴れ渡ったような清々しい空気に私はつつまれていた。”
で物語は始まる。そう、この物語は死んだ少女の語りで進む。息絶えた少女が病院に運ばれ、研究用にバラバラに解体され、研修生の教材にされていく自らの様を淡々と語っていく。
“メスは、まず私の頬に食い込んだ”
と静謐に語る。
これはもうホラーである。
こうして並べてみると、吉村昭の小説には「境界」というものを強く意識させられる。
『破獄』での刑務所と一般社会の物理的な境界、『朱の丸御用船』での新年に村の入口に注連縄を張り災いが入り込まないようにした精神的な境界。果たしてそれら境界はなんの意味も成さなかった。佐久間清太郎は塀の内外を自由に行き来し、注連縄を張った村には災厄が訪れる。また『星への旅』は生と死そのものを扱った作品が中心であり、「少女架刑」では生の“向こう側”である死の視点から描かれ、表題作「星への旅」では若者が自死という行為で生と死の境界を易々と越えていく。
吉村昭の描く境界は、僕がテントの薄い幕一枚で羆からの脅威に怯えていたように、境界があるようでいて実は存在しないか効果をなさない。
戦中、空襲に遭い、日常の中で川面に多くの水死体を見た吉村昭にとって、「境界」というものが幻想に過ぎないことを知ったのではないか。
“人間のしがみついている生命は意外なほどもろく、死は、軽い挨拶のように容易に訪れてくるものなのだろうか”
「星への旅」で語られたこの言葉が吉村作品共通のテーマではないかと僕は思っている。
2015年5月 文藝春秋BOOKS「本の話WEB 文庫3冊で読む作家」掲載
『破獄』吉村昭/著
新潮文庫 ISBN:978-4-10-111721-8
『朱の丸御用船』 吉村昭/著
文春文庫 ISBN:978-4-16-716935-0
『星への旅』 吉村昭/著
新潮文庫 ISBN:978-4-10-111702-7
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