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フライフィッシングは宗教である

『FlyFisher』2012年6月号掲載

ポール・クイネットは『パブロフの鱒』の中で書いている。「釣りあげるより、希望を持って釣りをしているほうがいい」(もとは日本の旅の諺らしい)
 僕はこの言葉に全面的に同意する。釣りあげることすらままならない自分から希望をとったら何が残るというのだろう。そして魚が釣れないと、つい思索にふける。美味いラーメンのこととか、観たい映画のこととか、消費税アップとか、世界平和のこととか。今年はそこにセシウムが加わるだろう。魚が釣れる回数が少ないのは、釣りの技術がないわけでなく、魚が釣れず呆然と立ち尽くしているわけでもなく、実はさまざまな思索にふけっているから・・・なのだ。
 ノーマン・マクリーンはその思索から『マクリーンの川』を生み出し、それはブラット・ピット主演の映画『リバー・ランズ・スルー・イット』の原作となった。20世紀初頭のアメリカを舞台に、フライフィッシングを通じて、家族と弟ポールとの絆を故郷モンタナの雄大な自然を背景に描いた物語。本書は『釣りキチ三平フライフィッシング編』と並び、多くのフライフィッシャーにとってバイブルとなっていると思うが、僕がこの釣りに出会ったのも本作である。しかし、まだフライフィッシングどころか、釣りの経験さえなかった頃は、映画を含めて抑揚のない物語に退屈な印象を持っただけだった。
 それが自分で釣りを始めてから、本と映画の印象ががらりと変わった。川の流れを読み、魚のいるポイントが理解でき、なおかつこの上なく美しいキャストで魚を釣りあげるという、フライフィッシャーの至福の瞬間を描写した映画がほかにあっただろうか。
 そして原作と映画の第一声「わたしたちの家族では、宗教とフライフィッシングのあいだに、はっきりとした境界線はなかった」という言葉どおり、牧師である父から教わるノーマンと弟ポールのフライフィッシングは、人間は救いのない存在であるとする神学の教義を背景に、キャスティングが不確かな人間が魚を釣ることは魚への冒涜であり許されざる行為だという宗教的な規範の中にあった。そう、キャスティングトレーニングは、宗教的訓練だったのだ。
 なるほどフライフィッシングは宗教である。フライフィッシャーはその釣法に忠実に従い規範から外れることをよしとしない。また、魚への敬愛も神へのそれと同じか、もしかするとそれ以上だ。ただ、宗派が違うとそこには埋め難き溝も現われる。弟ポールは、アイザック・ウォルトンをベイトフィッシャーマン(餌釣り師)だと卑下し、義兄のニールがエサのミミズを入れた缶を見て苦笑する。それでも双方が気遣いつつ互いに尊重し合いながら距離を保つ分にはいいが、その溝を認識せずに跨ぐ人間もいる。アーネスト・ヘミングウェイだ。
 『われらの時代』という作品群の中にある「二つの心臓の大きな川」で、主人公ニックは、こともあろうにフライロッドでバッタをエサにしてマスを釣る。おお。神よ。さすがは「宗教は人をしびれさせる阿片である」と言ったヘミングウェイである。その言葉自体はそれほど単純なものではなく、当時から広く使われていた表現ではあるものの、マクリーンとヘミングウェイが釣りに出かけたら殴り合いの喧嘩になっていたことは想像に難くない。
 釣りは宗教であり阿片である。それを見事なまでに自伝として書き上げたノーマン・マクリーン。多くのフライフィッシャーが著書や映画に魅せられた理由はおそらくそのあたりにあるのだろう。
 もちろん、本当のところは息子二人と楽しく釣りができ、しかも妻が見送りに出てきてくれるような、日本の現実ではめったに見られないような夢がそこに見られたからなのかもしれない。
そして僕たちは今日も、我らが神である魚がもたらす希望を信じ、すがるような思いで川に立つのである。

『パブロフの鱒』 ポール・クイネット/著 森田義信/訳
角川書店 1,944円 ISBN 978-4-04-791362-2

『マクリーンの川』ノーマン・マクリーン/〔著〕 渡辺利雄/訳
集英社文庫 617円 ISBN 978-4-08-760359-0

『われらの時代・男だけの世界 ヘミングウェイ全短編 1』
ヘミングウェイ/〔著〕 高見浩/訳 新潮文庫
810円 ISBN 978-4-10-210010-3

『リバー・ランズ・スルー・イット』
1992年アメリカ映画
監督:ロバート・レッドフォード 
出演:ブラット・ピット、トム・スケリット、クレイグ・シェイファー


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