プラーナヤーマが広げた学び
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リアル解脱
父はあのとき自分の命がもう長くないんて、全く思っていなかったと思います。だから逆に生きたい!という、みなぎるパワーもありませんでした。
ですが生きることを諦めたわけでもなく、むしろ「欲」というものを手放して感謝を感じ、今を生きていました。
幸いにも老衰に近い形でゆっくりと命を終えることができた父。あれはまさにヨガでいうところの「解脱」であったのではないかと、いま思うのです。
じつは呼吸を生業としているのに、ヨガのプラーナヤーマについては手つかずだった私。それはプラーナが「宇宙エネルギー」といったような漠然としていた表現で書かれていて、左脳優位で生きていた私には拒否反応が強すぎた、というのが本当のところでした。
ですが必要なモノは必要なタイミングでやってくる、とはこういうこと!父が亡くなった後、そういった偏見的なモノが落ちて学び始めた「プラーナヤーマ」は、スポンジが水を吸うようにスルスルと頭と心に沁みわたっていきました。
プラーナヤーマは解脱への準備
ヨガは「ヤマニヤマ」という戒めから始まり「アーサナ(ポーズ)⇨プラーナヤーマ(呼吸)⇨ディアーナ(瞑想)⇨サマーディ(解脱)」と続き、すべては最後の「解脱」のためにあること。
プラーナヤーマから瞑想までには、プラテヤヤハーラ(感覚の統一)・ダーラナ(集中)といったことも含まれるなど、何となくだった情報は知識となって、ぼんやりとしていた様々なものがクリアにしていきました。
とくにヨガでいうところの瞑想については、俗にいう無の境地になるためではなく「無の境地になってから始める物」であること。一般的には「集中していくために行う」そんな扱われ方をしている瞑想が、本来は全く別物であることは目から鱗でした。
情報が溢れているからこそ、簡単に消せるネット上の情報とは違い「本」というきちんとした媒体で学ぶことの大切さ。
昭和な人間の私には電子書籍よりも、アナログに赤線を引きながら読む方が頭に入りやすいことにも気づいたのも、大きな収穫となりました。