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ブーニンの糖尿病
1985年、スタニスラフ・ブーニンが19歳でショパン・コンクールに優勝し、日本で大ブームになったときの記憶は、わたしの中でまだ鮮明だ。
当時はいわゆるバブル期、まだ冷戦中で、ブーニンはソ連のピアニスト。ソ連の有名ピアニスト一家、ネイガウス家に生まれた「貴公子」だった。
ブーニン19歳の天才ピアニスト CM 1986年
中でもよく憶えているのは、人気絶頂のさなか、朝のテレビ番組に出て、(彼の得意の「猫のワルツ」ではなく)子犬のワルツを披露したときのことだ。
演奏を目の前で聴いていた女性アナウンサーが、聴き終えて絶句し、涙を流していた。
たしか、「あれ、わたし、なぜ泣いてんだろう」などと言うのがやっとだった。
圧倒的演奏を間近で聴いて、本物の感動が襲ったことによる「放送事故」だった。
わたしも本でしか知らないが、ショパンの音楽には、本来そういう力があったそうだ。
いまでは音楽が氾濫しすぎて、ショパンの曲もほとんど耳馴染みになっている。
しかし、録音装置もなにもない19世紀前半に、ショパンのような、極度に洗練された音楽をはじめて聴いた人は、「奇跡」を体験したように感じ、異次元に魂をもっていかれるような感動を覚えたそうだ。
そういうことが現代でも起こるんだなあ、と思った。
そして、当時のブーニンには、そういう「奇跡」を起こさせる力があった。
だが、その後、ブーニン人気は沈静化し、いつしかブーニンの名前は消えていった。
日本でアイドル的に人気になり過ぎたことが、かえって批評家の嫉妬や低評価を招いたのかもしれない。
まあ、わたしもちょっと嫉妬したかもしれない。
ただ、そのころに聴いた彼の録音に、あまり感動しなかったのも事実である。
彼の演奏には「ため」がなく、呼吸感がよくない、なーんて思っていた。
そして、すぐにわたしもブーニンのことを忘れた。
ブーニンのことを思い出したのは、つい最近、YouTubeで、シマノフスキのプレリュードの演奏を聞いたときだ。
だれの演奏か知らずに聞いたのだが、「なんだこれは!」と鳥肌が立った。久々に音楽に感動したのだ。
シマノフスキの「激情」を、これほど完璧に音にした演奏例を知らなかった。
ブーニンの演奏だと知って、「へー、ブーニンって、こんな演奏もするんだ」と、印象を新たにした。
そのあとに、やはりYouTubeで、まあ風呂に漬かりながら、iPadで「ゆき先生のピアノレッスン」を見ていたら、ブーニンが10年ぶりにおこなったコンサートに行った話をしていた。
そこではじめて、ブーニンが1型糖尿病で、ながらく闘病し、足を切断していることを知った。
[雑談vol.9]ブーニンのリサイタルに行って来ました♪(ゆき先生のピアノレッスン 2024年2月1日)
リハビリ後、10年ぶりにおこなったコンサートでも、かつてのテクニシャンぶりはなく、かなりあぶなっかしい演奏であったらしい。
でも、演奏後には、「ありがとう!」という声が、多くの観客からあがったという。「ブラボー」ではなく「ありがとう」であったことが、当日のコンサートの質をものがたっている、と「ゆき先生」は言っていた。
また、「ゆき先生」は、ブーニンの自伝にある、名門ピアニスト一家に生まれたことの苦悩、ブーニン自身がロシア的ピアニズムに疑問をもっていたこと、などについても語っていて、
「はー、あの『貴公子』にも、いろいろあったんだなあ」
と、わたしは風呂に漬かりながら思った。
風呂からあがって、YouTubeの「お気に入り」に登録していたブーニンのシマノフスキを聴きながら、
「まだ俺は、ブーニンも、人生も、わかっていない」
などと思った。
スタニスラフ・ブーニン:シマノフスキ「プレリュード嬰ハ短調」(1997ライブ)
<参考>