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忘れられた柿生の郷土作家 河上徹太郎と山室静

わたしが住む柿生(川崎市麻生区)にゆかりの文化人といえば、まず河上徹太郎と山室静の二人にトドメをさす。

といっても、河上と山室を、いまの人は知らないだろう。わたしだって、柿生に引っ越してくるまで、ほとんど知らなかった。(念のため、ヤマムロ・シズカは男性です)


河上は、小林秀雄の盟友で、昭和を代表する文芸評論家。山室も基本は文芸批評家だが、北欧文学の研究者として有名で、「ムーミン」の翻訳家として知られる。

いずれも生前は、100冊近い著書・翻訳書を出し、10巻に近い著作集が出版されている。



この二人は年齢が近い。河上が1902年(明治35年)生まれ。山室が1906年(明治39年)生まれ。

柿生に引っ越してきたのも、河上が1947年、山室が1949年、と近い。その後、二人は死ぬまで、30年前後、柿生に住んだ。


住所は、河上がいまの小田急多摩線「五月台」駅と「栗平」駅の中間あたり(白鳥神社の近く)。山室は「五月台」駅の下にあたる修廣寺の敷地内。つまり、家も近かった。(もっとも、当初は多摩線は存在しない)

それぞれエッセーの中で、河上は「柿生駅から歩いて30分」、山室は「柿生駅から歩いて10分」と書いている。(多摩線開通と同時にできた「新百合ヶ丘」駅も当時はない)


お互いの家は、歩いて20分弱の距離だった。河上の家からは、山室の家は柿生駅に向かう途中と言っていい。

河上邸と山室邸のだいたいの位置


当時の柿生は田舎であり、いわゆる文化人の人口は少ない。

では、二人は親しかったかといえば、その形跡はない。


山室はエッセーで「私が引っ越してくる少し前に河上徹太郎さんが越してこられていた」と書いているが、河上への言及はほぼそれだけ。

河上は、柿生の自宅で多くの文学者と交流したことをエッセーに書いているが、わたしの知るかぎり、山室は登場しない。



河上徹太郎は、小林秀雄とともに、「文学界」の同人だ。

「文学界」は、小林のほか、川端康成、宇野浩二、林房雄らによって、1933年(昭和8年)に創刊され、河上は途中から参加して主要メンバーとなった。有名な「近代の超克」座談会で司会を務めたのが河上だ。

この「文学界」は、当時のプロレタリア文学に対抗する、「芸術至上主義」の牙城だった。(名義上は、文藝春秋から現在出ている「文学界」につながっている)


一方、山室静は、「近代文学」の同人だった。

「近代文学」は、1945年(昭和20年)、山室、埴谷雄高、荒正人、平野謙、小田切秀雄らによって創刊され、のちに野間宏や加藤周一、福永武彦らがくわわった。

この「近代文学」は、元プロレタリア文学のシンパたちの集まりで、戦後に左翼運動と距離を置いた人たちの牙城だった。(「近代文学」は、吉本隆明や辻邦夫を発掘し、1964年に終刊した)


「文学界」と「近代文学」という、日本の文学の流れを作った文芸誌に主要メンバーとしてかかわっただけでも、河上と山室は文学史に名が残るだろう。

ともあれ、以上の説明で、河上と山室が、お互い「肌あいのちがい」を感じていただろうことは、おわかりいただけると思う。



とくに河上徹太郎は、プロレタリア文学が流行していた若いうちから「反左翼」を鮮明にした人だった。

そして、「自分には『転向』などは無縁」と胸を張っていた。

彼は、小林秀雄とともに、基本的に政治とは距離を置いたが、保守主義者であることは一貫していた。


山室静は戦前、プロレタリア文学運動、共産主義運動に、どっぷり漬かった。

しかし、逮捕拘留などの弾圧を受けたのち、転向した。

彼は、おそらく晩年まで、転向者としての意識を引きずっていた。



この二人をくらべると、それぞれが「転向した人としなかった人」の典型に見える。

転向しない、どころか、若い時から考えを一貫させた河上徹太郎は、性格が安定していて、その文章も自信と力強さに満ちている。

転向した山室静の文章は、河上よりも繊細な代わりに、しばしば自己不信が顔を出し、ときに自己卑下や憐憫につながる。


それが、転向したから生じた差か、もとからの性格のちがいかは分からない。

河上徹太郎は、ゴルフなどの文壇の付き合いに積極的で、柿生では片平あたりで銃を撃って狩猟に興じていた。

山室静は、ゴルフどころか「自転車にも乗らなかった」というほどスポーツに無縁で、昔から引きこもって本ばかり読んでいたと書いている。



ただ、この対照的な二人が、似てくるのが1970年前後だ。

このころ、小田急多摩線開通(1974年)に向けて、柿生・片平地域が大開発されていた。

田園の中を片平川が流れ、その片側が、緑豊かな丘陵地帯になっていたのが、当時の片平だ(片方が平らだから「片平」と呼ばれた)。戦後でも、片平川にはシジミやホタルがおり、いま多摩線が走っている丘陵にはウサギが跳ねていた。

その川と丘陵の自然が、開発によって急激に失われた。


河上も山室も、自然を人一倍愛していた。それぞれ『自然のなかの私』(河上)、『植物的生活から』(山室)というエッセー集があるほどだ。だから柿生に長く住んだのでもある。

二人はともに、開発に反対して、柿生や片平の自然が破壊されることに、憤慨する文章をたくさん書いている。


しかし、その後の対応にちがいが生じる。

山室は、さすが元左翼で、環境保護運動のリーダー役として活動する。

河上は、文章で不満をぶちまけたが、それだけで政治的活動はしていない。



二人の反対にもかかわらず、小田急多摩線は開通し、まもなく二人とも亡くなった。

この二人の柿生での軌跡と距離感は、日本文学の流れを如実に反映しているようで、興味深い。


でも、二人とも小田急の開発に反対したからか、小田急に買収されている(?)川崎市麻生区の観光案内や郷土史には、二人はほとんど登場しない。文学碑もない。そのくせ麻生区は「芸術のまち」などと自称している。(図書館の「郷土作家」コーナーにかろうじて二人の本がささっている)


二人は、一流の筆で、開発前の柿生の自然を多く描いている。だが、そういうのは、かえって不都合なのだろう。いまは柿生ではなく、開発によってできた「新百合ヶ丘」が麻生区の顔だ。

今年は、小田急多摩線開通50周年である。



<参考>








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