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2025「ポリコレ」予想 保守の勝利が定着するか、左翼が巻き返すか

トランプ勝利で「言論の自由」は蘇るのか


noteを毎日のように書いていると、たしかによい記録になる。

この5年ほど、SNSがどのように変化していったか、自分の記事によって後づけることができる。


たとえば、2020年末には、私はツイッターの左翼偏向にうんざりし、いったんはSNSから離脱する決意をしている。以下の文章で「今度の大統領選」と言っているのは、2020年の大統領選のことだ。


今度の大統領選でも問題になりましたが、ポリコレ含めた政治的検閲が増えましたね(Youtubeなんかもそうです)。政治的な影響力があまりに大きくなったからでしょう。その影響力を利用しようとする、twitterのハッシュタグの(左翼の)政治デモなんかもウザかった。
(2020/12/9)


それは、2020年の大統領選でトランプが敗北し、トランプふくむ保守派がSNSからパージされた結果でもあった。

だが、2022年春ごろから、イーロン・マスクが「言論の自由」について積極的に発言するようになり、保守の巻き返しが始まる。


米テスラCEOとして有名な起業家イーロン・マスク氏が加入者減少のNetflixの株価暴落について、ポリコレ批判を交えながらツイートを行っていた
(2022/4/22 メディアからの引用)


この2022年の7月に、安倍晋三元首相暗殺事件が起こる。

そして、2022年10月に、マスクがツイッターを買収した。

いま振り返れば、2年前のこの買収が、トランプ再選の序章だったのは明白だろう。


マスク氏の決断は、思わぬ効果を、日本のツイッター利用者にもたらした。それは日本のツイッターのニュースフィードやトレンドから、政治的に左に偏った記事や発言がほぼ一掃されたことだ。
私もこの変化にはすぐに気が付いた。例えば、ニュースフィードでは、ハフポスト、朝日新聞などの記事を目にすることがほとんどなくなった。
(2022/11/21 メディアからの引用)


マスクのツイッター買収により、アメリカでも、SNSで保守派の発信力が強まり、今年(2024年)のトランプの再選と、ついでにマスクの政権入りに結びつく。

同時に、「ポリコレはもう流行らないからやめよう」という動きが、そこここで見られる。


この夏には、ハリウッドの若手女優、ジェナ・オルテガの率直なポリコレ批判が共感を呼んだ。


「みんなポリコレを求めてくるけど、その結果、人間性や誠実さが失われている。正直でいられないから」

“Everybody wants to be politically correct, but I feel like, in doing that, we lose a lot of our humanity and integrity, because it lacks honesty.”
(Variety 2024/8/8)



このポリコレ批判の流れが定着し、2020年代前半にあれほど猖獗をきわめたポリコレがついに廃れ、2025年には、言論の自由を謳歌できる世界が実現するのだろうか。


私は、そうは思わない。

政治的な右と左は、天秤のように、あるいは振り子のように「バランス」をとりながら進む。一方に揺れると、必ず揺り戻しがある。

一見、保守派が政治的に勝利した時、左翼リベラルの巻き返しが起こる、という歴史を、私は何度も見てきている。


「ポリコレ」の始まり


そもそも、ポリコレはいつから始まったのか、覚えているだろうか?

Wikiの「ポリティカル・コレクトネス」を見ると、語源的なことがいろいろ書いてあるが、かえって歴史の流れがわかりにくくなっている。


アメリカでポリコレが社会の前面に出てきたのは、1980年代、ロナルド・レーガンの時代からである。

それは、昨日訃報が流れたジミー・カーターの政権からの交代だった。


「弱いリベラル」から「強い保守」へという交代は、現在のバイデンからトランプへの交代に似ている。

一見、保守の勝利に思えたが、その時、ポリコレが広がっていくのである。


それについては、日本未訳の『バイアス Bias(偏向)』という本が参考になる。

2002年にアメリカで出版された『バイアス』は、画期的な本だった。CBSの著名ニュースキャスターだったバーナード・ゴールドバーグが、メディアの「リベラル偏向 liberal bias」を内部告発したのだ。

この本は、たちまち全米1位のベストセラーになった。

Bernard Goldberg, Bias, 2002


日本には、残念ながら、こういう勇気あるジャーナリストは少ない。新聞記者では、朝日新聞を退職後に『「悪魔祓い」の戦後史』(1994年)を書いて左翼偏向を暴いた稲垣武がいたが、テレビに出てくる自称ジャーナリストは、池上彰のような「テレビ局の忠犬」の左翼リベラルばかりだ。


それはともかく、ゴールドバーグは本書で、ポリコレが始まったレーガン政権(1981〜1989)の時期のことを書いている。


ロナルド・レーガンは、アメリカ人の大多数が聞きたかったことを、すべて言った。我々が税金を払いすぎていること。ソ連は悪の帝国だということ。アメリカは、伝統的な家族の価値観を取り戻す時が来た、ということ。

それを聞いて、全米のリベラル派はムカついたのだ。

リベラルの既成権力にとって、ロナルド・レーガンは「ネアンデルタール人」だった。レーガンは年寄りで、かっこ悪く、頭も悪く、せいぜい「愛想のいい劣等生」だとみなした。

左翼にとって、レーガンは、背後にひかえる、より悪知恵が働く右翼が彼に渡すセリフを、ただ読んでいるだけの二流俳優にすぎなかった。

Ronald Reagan said all things the majority of America wanted to hear. That we pay too much taxes. That the Soviet Union was an Evil Empire. That it was time to restore taditional Family Value to America.
Liberals were gagging from sea to shining sea.
To the Liberal Establishment, Ronald Reagan was a Neanderthal. He was old, he wasn't hip, and, worst of all, they saw him as stupid, "an amiable dunce," to use the put-down of choice. 
To the Left, Reagan was no more than a two-bit actor who was merely reading the words that the smarter and scarier right -wing put in front of him.
(Bias, p60)


リベラル左翼はとにかく、レーガンのやることなすことが、すべて嫌いだった。

この時期の左派のレーガン嫌いを、私も覚えている。

それは、2010年代の「アベガー」によく似ていた。

レーガンがそう見られたのと同様に、左翼リベラルは安倍元首相を「頭の悪い奴」「背後の右翼(日本会議、統一教会)の操り人形」だとみなした。


だが、レーガンは国民的人気があった。それで、左翼リベラルは「ポリコレ」を始める。再び『バイアス』から引用するとーー


この雰囲気の中で、リベラルは自分たちが包囲されて負けそうだと感じた。だから、空想もまじえ、あらゆる些細なことに非常に敏感になった。

こうして、ポリティカル・コレクトネスが定着しはじめたのだ。

紋切り型のフェミニストを笑うジョークーー「切れた電球を取り替えるのに何人のフェミニストが必要でしょうか? 答えは、何人いても同じ、なぜなら彼女らは何も変えられないから」といったジョークで笑うことは、もはや許されなくなった。つまらん! 

ゲイの無謀な行動がエイズの蔓延を引き起こしているのではないか(たとえば、同性愛者のハッテン場になっている公衆浴場は閉鎖すべきだと言っても拒否されることなど)と、異性愛者が示唆しただけで、それは「ホモフォビアだ」と見なされるようになった。

It was in this atmosphere that Liberals felt as if they were under siege. And they become very sensitive to every slight, real or imagined.
Political correctness started to take hold. Jokes about how many feminists it took to change a lightbulb weren't funny, damn it! Any suggestion from straight Americans that gays might actually be fueling the AIDS epidemic with reckless behavior, by refusing, for instance, to shut down bathhouses that celebrated gay, anonymous, orgy-like sex, was seen as homophobia.  
(Bias, p61)


ここで指摘されているように、ポリコレの定着は、ちょうどエイズの流行時期と重なっていた。

エイズの蔓延によって、同性愛者が差別され、人権が侵されている、同性愛者を守れ、という左翼リベラルの主張が、そのまま「ポリコレ」になっていった面がある。

だから、ポリコレが、やがて「LGBT」のような形をとるのは、必定だったと言っていい。


この頃のポリコレのあり方を思い出すよすがとして、映画「フィラデルフィア」(1993)がある。

この映画で、トム・ハンクスとアントニオ・バンデラスが演じるゲイのカップルは、異常に美化されて描かれていた。

この映画が単なる左翼リベラルの宣伝映画に終わらなかったのは、デンゼル・ワシントンとジェイソン・ロバーズが演じた「フォモフォビア」の側も、威厳ある人間として描いたからだった。

とくに、エイズを怖がりながら同性愛者の権利を守る弁護士を演じたデンゼル・ワシントンの演技は見事で、この映画で彼はオスカー(主演男優賞)をとるだろうと、私をふくめて、多くの人が思ったはずだ。

だが、実際にオスカーをとったのは、自己陶酔的で過剰演技だった、同性愛者役のトム・ハンクスだった。(結局、デンゼル・ワシントンの主演男優賞は、2002年の「トレーニング・デイ」までお預けとなる)


まあ、それはともかく。


ハーヴェイ・ミルク事件のように、ゲイが実際に襲撃されたり殺されたりしているアメリカでは、同性愛者の権利を守る運動が必要だったのは理解できる。

しかし、バーナード・ゴールドバーグが指摘しているように、べつにレーガンから続く保守政権(レーガン1981〜89、ブッシュ1989〜93)が、同性愛差別や同性愛嫌悪を煽ったわけではない。


にもかかわらず、左翼リベラルの側では、アメリカの保守勢力が丸ごと少数者の権利を脅かしているという被害妄想があり、それがポリコレの蔓延へと結びつくのである。

まして、アメリカのようにゲイが襲撃され殺されるというようなことがほとんどない日本で、「LGBT」運動が必要なのか、という日本の保守の疑問は、当然のように思う。


(冷戦を平和裡に終了させたレーガン政権の評価は、その後アメリカのリベラルの間でも上がっている。日本からは、プラザ合意でバブルを起こした政権であり、いろいろ言いたいことはあるが・・)


日本で「ポリコレ」が輸入されたのはいつか


ちなみに、日本で「ポリティカル・コレクトネス」「ポリコレ」という言葉が使われ始めたのは、いつからだろう。

最初に日本でこの言葉や概念が紹介されたのは、以前にも書いたことがあるアラン・ブルームの『アメリカンマインドの終焉』ではないか、とされている。1987年にアメリカで原著が出版されたこの本は、ポリコレを批判的に検討した最初のメジャーな本とされており、その翻訳本は、1988年にみすず書房から出ている。

私が覚えているのは、1994年に毎日新聞から出てベストセラーになったカレル・ヴァン・ウォルフレンの『人間を幸福にしない日本というシステム』で触れられていたことだ。

これは、日本人向けにオランダ人ジャーナリストが書き下ろした本だった。以下の記述で、「ポリティカル・コレクトネス」という言葉を初めて知った日本人は多かったのではないか。


社会や政治にかかわることを言ったりしたりすることに、他の国の人以上に恐れとためらいを覚える国民が存在する(中略)

最近のアメリカにそのよい例が見られる。「政治的に正しいこと(ポリティカル・コレクトネス)」という言葉で知られる現象だ。アメリカの多くの学者やジャーナリストや知識人が、以前は忌憚のない発言ができたのに、いまやそれができなくなったと感じている。彼らは、女性や社会のマイノリティ・グループに「不快感を与えた」と非難されるのではないかと、絶えず気にしている。そのため、政治的な議論の多くが不毛なものとなっている。

カレル・ヴァン・ウォルフレン『人間を幸福にしない日本というシステム』(1994)*ここでの引用は鈴木主税訳の新潮文庫版(2000)p334から


この時は、「ポリコレ」は、まだアメリカの話であり、他人事だった。

もちろん、ウォルフレンが本書で触れているように、日本にも、部落解放同盟による言論弾圧などはあった。


部落解放同盟は、部落問題についての率直な議論を、組織的な脅しによってタブーにしてきた。もちろん、彼らのグループは右翼と異なり、目的もちがう。しかし、彼らは編集者や発行人を脅し、被差別部落民に触れるものはどんなものでもこわくて出版できなくなるまで脅迫しつづける。これは、右翼のやっていることと同じだ。

編集者や発行人は、部落問題にわずかでも言及すれば、自分たちにたいする「糾弾集会」が開かれる恐れがあることを、長いあいだの経験から知っている。

(同p334)


だが、右翼による言論弾圧もふくめ、それは「ポリコレ」とはべつの政治的文脈を持っている。

ポリティカル・コレクトネスが、「ポリコレ」と略され、日本語として流通し始めたのは、私の記憶では最近で、2000年代を越えてからだったと思う。(ポリティカル・コレクトネスの略称は、アメリカでは「PC」)

日本で、「ホモ」や「変態」をジョークで笑いづらくなったのは、ごく最近だ。それまでは、サンドウィッチマンなどもよくオチに使っていた。


(なお、『人間を幸福にしない日本というシステム』の上のくだりは、KADOKAWAから出たその改訂新版『いまだ人間を幸福にしない日本というシステム』<2012>では、バッサリと削除されている。部落解放同盟や、ポリコレ勢力を恐れてのことだろうか。KADOKAWAは、昨年のトランスジェンダー本での問題といい、言論の自由を守ろうとしない出版社なので、早く潰れてほしい)


2025年はどうなる?


話がそれてしまったが、私がここで言いたかったのは、保守が勝利すると、左翼リベラルが巻き返す、逆もまた然り、ということだ。

「言論の自由」史という観点から見てもーー


・1960年代の左翼運動が敗北し、「しらけ世代」の70年代になってから、中国の文化大革命の影響や、部落解放同盟の糾弾戦術などの「言葉狩り」が増えた

・1990年代、ソ連が倒れ、冷戦が終わってから、左翼リベラルは「従軍慰安婦問題」などで巻き返そうとした

・2010年代、その「従軍慰安婦」が誤報とわかり、朝日新聞が謝罪してから、左翼リベラルの「アベガー」が過熱化し、安倍元首相暗殺、その後の「統一教会」での暗殺の正当化、へと続く


つまり、左翼リベラルが「負けた」「追い込まれた」と感じると、彼らは俄然巻き返しをはかってくる。その時に「言葉狩り」「ポリコレ」が起こる。日本ではとくにメディアがそのお先棒をかつぐ。

その繰り返しなのである。


誤解しないでほしいが、言論の自由を脅かすのは、左翼リベラルの「ポリコレ」だけではない。

日本でも、1980年代の昭和天皇死去の前後、右翼は天皇制批判や戦争責任論などを封殺すべく、さまざまな暴力を振るった。

たとえば、1987年の赤報隊による朝日新聞阪神支局襲撃や、1990年の長崎市長銃撃事件などだ。


右翼の言論弾圧は、左翼リベラルのそれより、より暴力的な形を取りやすい。

それゆえ、それは恐ろしいが、頻度としては、比較的稀だと言える。


左翼リベラルの言論弾圧は、より日常的で、些細なことへの執拗なイチャモンという形を取りやすい。そしてそれは、暴力同様に、自由を萎縮させる効果をもつ。「ポリコレ」に典型なように。


2025年、トランプ政権が始動すると、左翼リベラルは、また新たな「ポリコレ」(たとえばSNS規制など)を始めるだろう。

私のような、「言論の自由を守る」派のリベラルとしては、来年も振り子の揺れ具体に注目し、自由が最大限守られるよう、微力を尽くしたい。



<参考>


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