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報われない愛国心 火野葦平、徳富蘇峰、小林よしのり

火野葦平の自殺の意味


数日前に、火野葦平(1907ー1960)の「革命前後」は、失敗作だけど共感する、と書いた。

終戦の記念日が近いから、その話を少し敷衍しておきたい。


火野葦平も「革命前後」も知らんがな、という人は多いだろう。申し訳ないが、暑いから長々説明する気になれない。以下をご参照いただければ幸いだ。




芥川賞作家・火野葦平は、戦中「兵隊作家」として名を成した。

そのため、1945年の敗戦時、日本共産党に「戦犯作家No1」だと名指しされた。

結局、戦犯にはならなかったが、公職追放になり、1950年に作家復帰する。

しかし、1960年に自殺する。享年52歳。

自殺前に「中央公論」に書いたのが「革命前後」という小説だ。


「遺書」となった火野文学最後の大作、原稿用紙1千枚が今甦る!  敗戦前後の兵隊と民衆の実相―そして戦争責任に苦悩する姿を描く。(社会批評社版「革命前後」説明文)

火野葦平「革命前後」


「革命前後」は、一般に、火野が自らの戦争責任を告白した小説のように思われている。

「革命前後」を書き終えたことで、火野は自らの戦争責任を自覚し、それゆえ自殺した。上の社会批評社版の説明文のごとく、「革命前後」は「遺書」だ、という解釈すらある。

しかし、読んでみれば、そんな小説ではないのがわかる。


「革命前後」のテーマが、自らの「戦争責任」であったのは確かだ。

「革命前後」で火野が書かなければならなかったのは、次の2つだった。


1 戦争遂行に加担した責任を認めて、自責の念を表明する

2 しかし、自分には戦後も書き続ける理由があり、そのことに理解を求める

つまり、戦争責任についての謝罪と、作家を続けていることへの釈明、の2つが必要だった。


しかし、1と2が、自分の中で矛盾していることが、書いているうちにわかってくる。

1(戦争責任)を認めようとすればするほど、2(作家活動の継続)の釈明が難しくなってくる。

もし、戦争責任を認めるなら、筆を折るべきだ、というのが、火野自身の倫理観なのだ。

そういう「男らしい」倫理観こそが、「正義の作家」火野葦平の文学だった。 

そのことが、書けば書くほど明らかになってくる。

実際、この小説の中で、火野はたびたび筆を折る「決意」をする。

しかし、次の場面になると、また作家として生きる「決意」をする。

この小説は、その矛盾する2つの「決意」の繰り返しで、話が停滞しており、倫理的にも論理的にも、読者を説得できていない。

だから、以前読んだとき、「失敗作」だと思った。

その失敗は、書いていて自分でもわかったと思う。


でも、今では、失敗作になったところに、火野葦平の「本音」が出ていると考えるようになった。

なぜ自分は、書きつづけるのか。

それは結局、戦争責任など感じてないからだ。

考えれば考えるほど、自分が悪かったとは思えないのだ。

「天皇陛下も責任を認めておらんのに、なして自分が作家をやめんといかんとか」

そんな思いが、小説の最後にはにじんでいる。(最後の部分で、天皇は終戦のときに退位すれば男らしかった、と書いている)


私は、火野は最終的には初老期うつ病で自殺したのだと思っている。

しかし、かりに「革命前後」が関係しているとすれば、火野は、戦争責任を感じたから死んだのではない。

自分に戦争責任などないと言っても、どうせ誰も聞いてくれないから、死んだのだ。


徳富蘇峰の「庶民感情」


同じような心境だっただろう、と私が思うのが、徳富蘇峰(1863−1957)だ。

戦後、文化人の中でA級戦犯相当だと人々が考えたのは、

思想家では大川周明、

作家では火野葦平、

ジャーナリストでは徳富蘇峰、

だった。

ご承知のとおり、この中で、東京裁判で起訴されたのは大川周明だけだった(が、精神障害で訴追免除となる)。

火野葦平と徳富蘇峰は数年間の公職追放で済んでいる。(学者では、平泉澄なども公職追放になった)


しかし、徳富蘇峰も、自分に戦争責任があるとは思っていなかった。

徳富蘇峰とは何者か、という説明も暑いから省く。よろしければ以下をご参照ください。


火野葦平も徳富蘇峰も、決して神がかり的な右翼、天皇主義者ではなかった。

蘇峰は、いわゆる熊本バンドの受洗者であり、維新後、最も早くキリスト教徒となった人で、新島襄から思想的影響を強く受けた。

開明的な社会改良論者で、日本に「社会主義」という思想を最初に紹介した人でもある。

火野葦平は、若いころは左翼思想に影響を受け、大学を中退して組合活動に熱中する。

その後、彼らは、日本の国家主義を鼓吹する人物となっていくが、「転向者」の意識は薄かった。

蘇峰は一時政府関係者となったが、基本的にはどちらも民間の一国民であり、いつも、

「日本国民として、日本のためにできる限りのことをしている」

という意識であった。

2人とも、決して「知的」なタイプではない。理論を構築して思想を国民に吹き込む、ということができる資質ではない。「庶民感情」に正直に動くタイプだ。

火野葦平の「兵隊小説」も、思想的なプロパガンダは少なく、むしろ反軍的要素を含むのはよく指摘される(たとえば、同じ肌の色の中国人を殺すことへの抵抗感などが描かれる)。

彼らは、意識の上では政府や軍と距離を置いた。

蘇峰は、戦前は日本随一の名文家とされていたので(その文章は国語の教科書に載っていた)、天皇の詔書に筆を入れていたことは自ら認めている。そういうところも「戦犯容疑」とされた理由だが、一方では、大逆事件死刑囚に対する「助命嘆願書」も(弟の徳富蘆花に促される形ではあるが)書いている。

彼らの「庶民感情」からは、

「戦争中なのだから、日本が勝つように協力するのは当然」

なのであり、自分たちは、一国民の立場から、政府や軍の足りないところを補っている、という意識だった。(だから、自分たちが政治的権力を振るった意識もない)

だから、「戦争責任」など感じなかった。

責任があるとすれば、戦争に負けたことについて、天皇、政府、軍の日本国民に対する責任だ、と思っていた。


しかし、徳富蘇峰も、その思いは戦後、生きているうちは人々に明かさなかった。

死後公開された「終戦後日記」に、その思いが記されている。


明治・大正・昭和を通じ活躍した言論人、徳富蘇峰が、終戦直後から書き残していた膨大な日記を発掘。戦争中、大日本言論報国会会長として戦意を煽ったと戦犯容疑のため自宅に蟄居しながら綴り、『頑蘇夢物語』と自ら命名した日記には、無条件降伏への憤り、昭和天皇への苦言から東條英機、近衛文麿ら元首相らへの批判と大戦の行方を見誤った悔悟の思いが明かされている。(講談社「終戦後日記」説明文)

徳富蘇峰「終戦後日記」


生きているうちは、

「自分には戦争責任はない、と言っても、人々はどうせ聞いてくれない」

の思いは、火野葦平と一緒だったろう。


昭和天皇の評価


私は、徳富蘇峰や火野葦平は、ごくまともな人たちだったと思う。

天皇機関説事件で美濃部達吉を排斥した、蓑田胸喜のような狂的な右翼とは全然違うのである。

蘇峰や火野が亡くなった1960年ごろまでは、たしかに、彼らの言い分に社会が耳を貸す雰囲気ではなかった。

しかし、いまは、もう少し公平に評価されるべきだろうと思う。

ただ、その際に、昭和天皇の評価とのバッティングが起こる。それが障害になるかもしれない。

徳富蘇峰も火野葦平も、普通の意味では天皇主義者だったが、昭和天皇に対しては、「男らしくない」と批判的だった。蘇峰は明治天皇を信奉していたので、余計に昭和天皇の優柔不断に不満だった(それが「終戦後日記」に書いてある)。

しかし、いまは逆に、昭和天皇の「男らしくない」ところが評価されている。昭和の終わりに昭和天皇の戦争責任論はまだくすぶっていたが、平成年間を通じて、「昭和天皇は平和主義者だった」「昭和天皇はむしろ被害者だった」という見方が定着したかのようだ。

昭和天皇免責論は、実はA級戦犯相当だった朝日新聞、毎日新聞、講談社などのマスコミに都合がいい。


「軍部に強制された」という理屈で一緒に免責されるからだ。保阪正康は、その見方を広めた功績で、菊池寛賞や毎日新聞賞などを取った。

蘇峰や火野葦平が生きていたら、不満で鼻を鳴らすだろう。戦中、蘇峰は毎日新聞社賓となり、火野葦平は朝日文化賞を取った。しかし戦後、朝日・毎日はてのひらを返し、彼らに冷たかった。


周縁のサムライ


火野葦平や蘇峰の愛国心や尊皇心は、結局、報われなかった。

尊皇心とは、もともと報われないものだ、という、三島由紀夫の有名な「恋闕(れんけつ)」論がある。


「恋闕とは天皇に熱い握り飯を差し上げることだ。そんなもの食えるかと拒絶されたら、腹を切ればいい。逆に、受け取って食べて下さっても、おそれ多いことだと腹を切る。それこそが純心な天皇信仰だ」
(三島由紀夫「奔馬」)


しかし、「恋闕論」に集約される三島の尊皇心と、蘇峰や火野葦平の尊皇心とは、ベクトルが逆な気がする。

三島由紀夫は、もともと天皇と近い立ち位置から、天皇を見ている。いわば「王朝」のインナーサークルであり、代々重臣、内務官僚の家系で、天皇周辺に「身内」意識がある。戦後の三島の天皇論は、「あんなに近かった天皇が、遠くに行ってしまった」という不満を元にしている。

蘇峰や火野葦平には、天皇にそういう「身内」意識はなかった。

蘇峰は熊本、火野葦平は福岡で、維新権力の中でも「周縁」に位置する人たちである。

私は九州に住んだから、天皇や明治以来の政治権力への距離感は、何となくわかっている。士族に連なったとしても、薩摩、肥前以外の自分たちは「中央」ではない、という意識が常にあるのだ。

だから、彼らは出世するにつれ「あんなに遠かった天皇を、近くに感じる」と感激し、過剰に「忠君」してしまったのではないか。


ちなみに、戦後も、火野葦平を一貫して評価していたのは、河上徹太郎だ。

戦中、戦地の火野葦平に芥川賞を授ける小林秀雄の写真は有名だが、デビュー以来、火野を常にバックアップしていたのは、同じ「文学界」同人の河上徹太郎だった。

「革命前後」には、火野葦平死後に日本芸術院賞が贈られたが、芸術院会員の河上徹太郎の周旋ではないかと私は思っている。

河上は、山口出身といっても、岩国藩士族の家系で、長州藩の支藩、ないし傍流の立場だった。

だから河上は、権力の中央ではなく、権力の周縁にいるサムライの気持ちがよくわかった。それが、火野葦平への共感につながっていると思う。


小林よしのりのために祈る


私は、徳富蘇峰や火野葦平の「愛国心」「尊皇心」に、権力の周縁にいる日本人の、悲しい運命を感じてしまうのだ。

戦中の火野葦平を知っている古川薫は、

今にして思うと、火野さんは軍から「人寄せパンダ」よろしく、目いっぱい利用された「悲しき兵隊」だった


と書いている。

自分こそ愛国者だ、天皇陛下も自分の働きを認めてくれている、と思っていても、実は、天皇家とか、政財官の門閥とか、戦前からの新聞社とかの、日本の本当の権力中枢に、いいように利用されて捨てられるだけなのだ。

私は最近、同じような運命を、小林よしのりの「愛子天皇」運動に感じている。

小林よしのり「愛子天皇論」


小林よしのりとは政治的意見が合わないことが多い。特に、私は天皇制廃止論のリベラルなので、皇室問題では根本的に対立する。が、保守論者の中では好きな人で、感覚的に共感するところも多い。

その小林は、宮内庁に呼び出され、上皇や天皇の「大御心」に感応して活動しているようだ。


上皇の「ゆくゆくは愛子(内親王)に天皇になってほしい」という意思こそが、その「大御心」らしい。

(ちなみに、保阪正康もよく上皇に呼び出されたらしい)

小林よしのりは福岡出身だ。同じ九州人というだけでなく、「庶民感情」で動くところが、火野葦平や蘇峰に似ている。(小林自身は、同じ九州人でも、玄洋社のような右翼に共感しているようだ。しかし思想的に、小林と玄洋社とはあまり結びつかないと思う)

いずれにせよ、小林も権力の周縁の人だから、皇族のために過剰に「忠臣」になってしまう恐れがある。

報われないだけでなく、利用されて、捨てられるだけ、にならないよう祈りたい。



<参考>


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