人は「死」を恐れていない
酒見賢一さんが亡くなったねえ。寡作な人だった。小説をもらえた編集者はラッキーでしたね。私は残念ながら縁がなかった。ご冥福を祈ります。
私の記事は、最近「死」についての話が続きますが、たまたまです。
さて、人は、死を本能的に恐れている、と言われる。
人と言わず、生き物は、死を本能的に恐れている、と。
よく言われるでしょう。
人は、死が恐いから、宗教にすがるのだ、とか。
でも、それは本当か?
ほんとは、本当ではない、という話。
ラッセルの説
人は、本能的に死が恐いから、宗教を信じる、というのは、バートランド・ラッセルが書いています。
来生の命ということについての信仰を起こすのは、合理的な議論ではなくて、感情である。
これらの感情のうちで最も重要なのは、死の恐怖であって、これは本能的であって、生物学的にも有用なものである。
(バートランド・ラッセル『宗教は必要か』p114 荒地出版、1977)
ラッセルのこの本(『宗教は必要か』)は、私の宗教観を決定づけた本でもありました。
影響を受けた人は多いのではないでしょうか。
私の中学・高校生時代。1970年代というのは、ノストラダムスの大予言とか、「こっくりさん」とか、オカルトが大ブームの時期でした。
それが、80年代のオウム真理教などを生み出していくわけですね。
私が読んだこの荒地出版の『宗教は必要か』は、1977年に出ている。ラッセルは1970年に死んでいて、彼の古いエッセーをまとめたものですが、私には、オカルトブームに対抗して出版された本に思えました。
私に関しては、この本で、「死後の世界はない」と納得できました。
ラッセルの論法は、こんな感じでした。
今日のあなたが、きのうのあなたから連続していると確信できるのは、記憶があるからである。
その記憶は、脳に物理的に局在する。
仮に今日、死んで、脳が働きを止めたら、記憶がなくなるのだから、今日のあなたが明日に連続することはない。
菊谷隆太の話
このラッセルの本を思い出したのは、数日前に、宗教家の菊谷隆太さんの以下のYouTube番組を見たからです。
「人生が終わることなんて大したことない、どうでもいい、という思いを仏教の視点で語る」
(仏教に学ぶ幸福論by菊谷隆太 11月11日)
「親鸞会」の菊谷は、既成仏教界では異端視されてると思うけど、ネット上の宗教家では随一の人気をほこる人ですね。
YouTubeチャンネルも、登録者26万人以上です。
この人、話がとくにうまいとは感じないけど、とにかく「見出し」がうまい。編集者的なセンスです。
この動画も、「死ぬことなんてこわくない」という見出しがうまい。普通は逆でしょう。「死の準備はできているか!」というふうに脅すのがふつうの宗教ですが、ひとひねりしている。
内容は、
「人は、いつか死ぬことを知っていても、死の当日まで真剣に考えない。それではいけない」
みたいな話で、結局は、「死の準備はできているか」的な脅しにはなるのですが。
しかし、人は、その時になるまで死を真剣に考えない、というのは人間性の真理をついている。
あれ? 「人は死を本能的に恐れている」はずではなかったのか。
人は死を真剣に考えることはない、本当には恐れない、というのだから、ラッセルとは逆のことを言っています。
余談ですが、菊谷さんは、この動画で1本の映画の思い出を語ります。
「ずっと前の映画ですけども、私、記憶に残ってるんですど。
世界の人口が増えすぎて、安楽死が法案化されて、
ある程度の年齢になると、役所で安楽死をしてもらう、と。
一人の老人が、安楽死の申請に来ました、と。
じゃあ、ってことで、ベッドに寝かされて。
ベートーベンの田園というクラシックを聞きながら、
天井一面にプロジェクターで、きれいな大自然の風景が出てきて、
そしてだんだん薬が効いてきて、うつらうつらとして、
眠るように死んでいく、と。
そういうのが映画のなかにありましたけれども、
私、子供心に、こんな形で死ぬんだったら、
死は恐くないものなのかな、と思ったことがありました」
菊谷さんは映画のタイトルを言っていませんが、チャールトン・ヘストン主演のSF映画「ソイレント・グリーン」(1973)ですね。
ベートーベンの田園を聞きながら安楽死する老人を演じたのは、エドワード・G・ロビンソンで、皮肉なことに、本作が実際に遺作になりました(映画公開時には亡くなっていた。享年79)。
フィルム・ノワール時代の名悪役として知られたエドワード・G・ロビンソンですが、われわれの世代では、この映画で記憶している人が多いのではないでしょうか。
私も子供のころ、この映画を劇場で見て、「田園」のシーンは忘れられませんでした。
ということは、菊谷は私と同世代かな、と思ったら、1968年生まれということで、私よりだいぶ若い。映画封切時はまだ5歳だから、テレビ放映で見たのでしょうか。
この1973年のSF映画が、「人口過密で安楽死が合法化された近未来」として描いたのは、50年後の2022年でした。
それについて、昨年、noteに書きました。
霊長類研究家の話
まあ、それはともかく。
人は、死を本能的に恐れているのか。
それとも、恐れていないのがふつうなのか。
答えは、恐れていない、です。ラッセルは間違っていました。
本能が死を恐れていない、というのは、直感に反するかもしれませんが、生き物に、死を恐れる本能はないんです。
それは、京大霊長類研究所教授(京大名誉教授)の江原昭善が書いています。
生き物には「死」は必然的属性だが、ひろく「死」という認識があるわけではない。
それに対してよく聞く話だが、「家畜でさえ迫り来る自分の死がわかるようだ」という。たとえば、牛が屠殺所に連れて行かれるときの、いつもと違う気配に敏感に反応して、悲痛とも恐怖ともつかない行動をするというのだ。しかし、それときのその牛は「死」を予感し、「死」を怖れているのではない。生き物であるかぎり、自分の「生」に対して、その「生」を妨げる気配を「危険」と察して恐れ戦いているのだ。「死」という現象を認識して、死ぬことを怖れているわけではない。
(江原昭善『人類学者の人間論ノート』p62 雄山閣、2017)
生き物は、「死」を恐れていない。ただ、「生」を妨げる気配一般を「危険」と察して避けようとするだけなんですね。
考えてみると、それはそうだ、という気がします。死を恐れる本能なんかがあれば、邪魔になって、生き物は生きていけません。人間も生き物である以上、それは同じわけです。
それでも、「人は、生き物は、死を恐れる本能がある」ということを、ラッセルのような、人類のなかでいちばん頭のいいような人でさえ、信じていました。
例外もあって、精神分析のフロイトは、有名な「快楽原則の彼岸」で、それに疑問を呈しました。人間にはむしろ「死の本能」があるのでは、という彼の議論は、行き過ぎではありましたが、やはり「死を恐れる本能というのはおかしい」という直感があったのではないでしょうか。
でも、人間は理性があり、想像力があるから、ほかの生き物とはちがう。「本能」ではないかもしれないが、死を恐れるのは人間性の一部ではないか、と言う人もいるでしょう。
実は、上に引用した江原氏も、同じように議論を展開します。
つまり「死」は文化次元・精神次元での現象なのであり、それを概念として認識しているのは人間だけなのだ。一方、生き物として存在するいろんな動物は、認識能力を欠き、本能的に身の危険を察知して、その危険を避けるべく行動しているのだ。人間は身に及ぶ危険がなくとも、観念的に死を想うとき、死を怖れる。
しかし、「概念としての死」「観念としての死」は、すでに「死」そのものではない、と言うべきでしょう。
本能的な死への恐怖とはべつの、実存的な「死の不安」がある、というのは、実存哲学の文脈でもよく論じられていました。
これ以上は哲学的な議論になりそうだし、私もよくわからないので、このあたりにします。
ただ、人は、「実存的な死の不安」から、自殺することさえある、ということが、逆説的に、「本能的な死への恐怖」がないことを示していると思います。
そうはいっても、死のまぎわになれば、みんなジタバタするものであって、私もジタバタするでしょう。
それでも、「死への恐怖は本能ではない」ということを覚えていれば、何かの助けになるかもしれません。
<参考>