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市川沙央を産経新聞の主筆に 「慶應義塾」と「マスゴミ」と「芥川賞」

慶応優勝とマスコミ


8月も下旬に入り、X(ツイッター)のトレンドワードをぼーっと見ていると、「慶応」と「マスゴミ」の2語がしばらく上位に現れた。

高校野球で慶應義塾高校が優勝したこと、そして、マスコミがその慶応を推しすぎてウザがられたこと、加えて原発処理水(汚染水)問題の報道がからみ、「慶応」「マスゴミ」がトレンド化したわけだ。


私は、あまりの暑さで頭がパーになり、それらの騒ぎをぼーっと見ていただけだが、「慶応」「マスゴミ」の2語から、福沢諭吉の「時事新報」が浮き上がって見えたのは私だけではないだろう。


慶応発行の「日本一の新聞」


かつて三田の慶應義塾の中で新聞が作られ、慶應義塾出版会からそれが発行され、格上の高級紙として、明治・大正期には「日本一の新聞」とされていたことは、今ではほとんど忘れられている。「不偏不党」を綱領で最初にうたったのも時事新報だ。

時事新報の紙面(Wikipedia「時事新報」より)


社説を書いていたのはもちろん福沢諭吉で、1885年(明治18年)の「脱亜論」が有名だ。

対外強硬派であった福沢なら、「処理水」問題では、支那や朝鮮がしゃらくさい、といきり立つだろうか。

創刊時、「我日本国の独立を重んじて、畢生の目的、唯国権の一点に在る」と宣言したのが時事新報である。

いや、当時と違い、強大になった支那と朝鮮に驚き、日本が押され気味なことを悔しがり、支那と朝鮮に同調的な同業の「朝日」「毎日」に憤るだろうか。

でも、他社(朝日)の主催とはいえ、野球大会優勝という塾生の壮挙には喜ぶだろう。

諭吉は、野球は知っていただろうが、彼が生きている間(1835ー1901)にもちろん高校野球大会などはない。早慶戦が始まったのは、諭吉の死後2年たってから(1903)だった。


なぜかマスコミで目立たない慶応


マスコミの中にいると、慶応OBより早稲田OBの方が目立っていた。

慶應義塾と新聞との深いつながりを考えると不思議だが、諭吉の死後、関東大震災あたりを境に、時事新報が没落し、早々に姿を消したのが原因か。

早稲田には大橋巨泉がいたことで知られる新聞学科があった。上智にも日大にも新聞学科があり、東大には新聞研究所があったが、慶応に同種の組織はなかったように思う。

なんでも自慢したがりそうな慶応生たちが、かつて「日本一の新聞」を発行していたことはあまり自慢しない。「ジャーナリスト・福沢諭吉」が論じられるのもあまり見たことがない。


明治政変と福沢諭吉


しかし、日本のマスコミ史を振り返るとき、福沢諭吉の時事新報は避けて通れない。

早稲田と慶応はライバルのようになっているが、大隈重信と福沢諭吉は、いわゆる「明治14年政変」のときは同じ側にいた。伊藤博文の敵側と目されていたのである。

その直前まで、大隈重信と伊藤博文は一緒になって、政府系の新聞を出すように福沢諭吉を口説いていた。国会開設を条件に、福沢もその話に乗っていたが、政変で急に大隈が失脚したため、大隈派と見られた福沢の「政府新聞発行」の話も立ち消えになった。

しかし、福沢はすでに新聞発行の準備を始めていたので、明治15(1882)年、政府援助のないまま「時事新報」を発行する。


慶応の黒歴史?


そういう複雑な事情とともに、結局は経営不振で潰れるのだから、慶応としても福沢としても、新聞発行のことは、あまり名誉なことと認識されていないのかもしれない。

時事新報は、戦中にいったん毎日新聞に吸収されたあと、戦後に一時復活し、産経新聞と合同して「産経時事」となった。

時事新報がおこなっていた「日本音楽コンクール」や「大相撲優勝額贈呈」は毎日新聞に引き継がれ、それ以外の、屋号その他の権利は産経新聞が今も持っている。

現在の産経新聞日吉販売所にも、

「(慶應)塾生諸君、福澤諭吉先生が創刊した時事新報が前身の産経新聞を読もう」

との広告が掲示されているそうだ(Wikipedia「時事新報」)。

対外強硬派の諭吉先生の魂は産経新聞に生きている?

でも、慶応が産経新聞を応援しているとも、産経新聞が慶応を大事にしているとも、聞いたことがない。

慶応優勝の産経の報道はどうだったのだろう。


福沢諭吉の芥川賞作家への転生


意外なことに、福沢諭吉の精神は、芥川賞を受賞した市川沙央氏に引き継がれていた。

文壇周辺をざわつかせている、市川氏の産経新聞への寄稿(8月23日)は、以下のとおり(抜粋)。


十代半ばから月刊「正論」読者でもあった私のような筋金入りの人間に対して、読書バリアフリーを訴えるマイノリティな身体障害者という面だけを見て、こいつは反日だの、左の活動家だのと、ずいぶん皮相浅薄なことを言ってくるものだと悲しくなった。

しかし産経新聞を購読する賢明な諸兄姉におかれては、もとより誤解の余地もなく、バリアフリーそして読書バリアフリーには右も左もないということを理解いただけるものと信じている。

差し迫る国難を見据えなければならない時代に、右か左か敵か味方かをインスタントに判断して両極端に分裂したがる安易な分断現象をこのまま放置していてよいとは私には到底思えない。れっきとした国家の脆弱(ぜいじゃく)性だろう。人口減少の社会では、ただ一人の生きる力の取りこぼしもあってはならない。保守派の包摂的な寛大さと対話能力が今こそ我が国のために発揮されることを心から願うし、私も相互理解を試み続けていきたい。


堂々たる文体とともに、そこに盛られているのは、まさに福沢諭吉の「国権派」の主張である。

産経新聞自身、福沢諭吉が生まれ変わって市川沙央になったことに、まだ気づいてないのではないか。

産経は、明日から市川氏を主筆に迎えてほしい。

朝日は平野啓一郎あたりを主筆にすればいい。

そして、いろいろあって途切れてしまった、明治以来の「国権派」VS「民権派」の新聞対決を再開してほしい。





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