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美智子上皇后と作家・森村桂の思い出の店 軽井沢「アリスの丘」を共産党が売却

あの軽井沢「アリスの丘」跡地を共産党が売却!?

昨日のニュースに私は驚き、そしてさまざまな思いがよぎった。


このニュースをご存知なら、美智子上皇后も、天皇陛下ご一家も、感慨を覚えられたのではないか。

そこは、「天国にいちばん近い島」で知られる作家・森村桂と、皇室ご一家の思い出の場所でもあったからだ。

だが、新聞記事には、皇室とのつながりについての言及はなかった。


 共産党が昨年1年間に土地売却によって得た収入が前年比約77倍の約17億2500万円だったことが、総務省が11月29日に公表した政治資金収支報告書で分かった。この中には、平成16年に死去した作家、森村桂さんの旧住居敷地やカフェの跡地も含まれている。

 収支報告書や登記事項証明書によると、森村さんがかつて住んでいた東京都杉並区西荻北の住宅敷地跡の約560平方メートルや、森村さんが経営していた長野県軽井沢町のカフェ「アリスの丘ティールーム」の跡地、近くの山林など約1万9500平方メートルを夫が所有していた。

 夫は令和3年に死去し、土地は遺言による寄付である「遺贈」によって共産党に渡っていた。同党はこれらの土地を昨年、計7億7800万円で都内の不動産会社などに売却した。

 森村さんは、南太平洋のニューカレドニアへ単身で渡航した体験を基に書いた「天国にいちばん近い島」がベストセラーになり、後に映画化もされた。ほかに「違っているかしら」「ソビエトってどんな国」などの著書がある。アリスの丘ティールームは森村さんの手作り焼き菓子が人気だった。(後略)

(産経新聞 2024/12/2)



それは1986年、まだ昭和天皇が存命で、美智子さんが皇太子妃だったころ。

その年の3月、美智子さんは子宮筋腫の手術を受け、訪韓の予定が中止になった。

そしてその夏、美智子さんは軽井沢で静養中だった。


前年(1985年)に軽井沢で「アリスの丘ティールーム」をオープンしていた森村桂は、美智子さんに手紙を書いた。

以下、森村桂の夫、三宅一郎の『桂よ。わが愛その死』(2005、海竜社)から引用する。(平成時代の本なので、美智子さんが「皇后」になっている)


その当時は、まだ皇太子妃美智子さまでいらっしゃったのですが、手術を受けたあと、軽井沢で静養されていました。そのことを知った桂は、皇后さまに手紙を書きました。

「どうか、『忘れんぼのバナナケーキ』を召し上がって、ご病気を忘れてください」

すると、なんと翌日の午後、皇后さまがお見えになったのです。桂はちょうど、ベランダでケーキを焼いているときでした。

「桂さん」

その声に桂が振り返ると、そこには本当に優しい微笑をたたえた皇后さまが立っていらっしゃるのでした。驚いたのは、桂だけではありません。スタッフを含め、私もただただ皇后さまを見つめるほかありませんでした。あらためて玄関から入り直された皇后さまは、桂がケーキを焼いているベランダに近づくと、紀宮さまを交えて、親しげに桂に声をかけてくださいました。そのとき、「殿下とのご夕餐(ゆうさん)に」とおっしゃり、「忘れんぼのバナナケーキ」をご注文くださいました。

その場でお金をやりとりしてお買い上げいただくというのもなんですから、「あとでお持ちします」と、ご都合のいいお時間をお聞きし、献上という形でお届けしたのを覚えています。そのとき、ご一緒されていた当時の曽我侍従が私に向かって、「両殿下は、お二人との末永いお付き合いを望んでおられます」と、まるで夢のようなお言葉をかけてくださいました。私はただ、「かしこまりました」と答えるのが精一杯でした。

(『桂よ。わが愛その死』p151)


一度会っただけで「末永いお付き合いを」と告げたこと、手紙を書いた「翌日」に来店したことなどを考えると、美智子さんは以前から、森村桂のファンだったのではないだろうか。


森村桂と美智子さん、皇室ご一家との交流はその後もつづき、度々ニュースにもなった。

1989年、昭和天皇が亡くなり、その年が皇太子夫妻には最後の軽井沢となった(天皇になれば、避暑地は軽井沢から那須に変わる)。

お二人は、最後の軽井沢の思い出に、「アリスの丘」で、森村桂夫妻と食事をともにした。


両殿下は、目の前で中華鍋をふるう桂の様子を目を細めてご覧になり、でき上がった「空飛ぶフーヨーハイ」を私たちと一緒にお召し上がりくださいました。食事のあとには、美智子さまがティールームにあったピアノを弾いてくださいました。それに対し、桂は自作のニューカレドニアの歌を歌って応えました。とてもなごやかな、楽しい時間を過ごさせていただきました。
(同p153)


そして、両殿下が軽井沢に来なくなったあとも、森村桂は、両殿下の誕生日など記念日の度にケーキを送り、時には御所に直接ケーキを届けて、ご一家とお会いすることがあった。

現天皇のご結婚のときには、ウエディングケーキを届けた。


皇室でのご婚儀にはウエディングケーキという習慣はないということでした。ただ、ご皇族やご友人などを招いた内々の祝宴では大丈夫という言葉を受けて、桂は皇太子殿下と雅子さまの恋の年月と同じ七年間、洋酒に漬け込んでいた干しブドウやカレンズを入れて焼いた七段重ねのウエディングケーキを作って、皇后さまにお届けしました。

皇后さまはとてもお喜びになり、お二人に桂からプレゼントだとおっしゃって紹介されたということでしたが、お二人は祝宴に使うものだとは知らず、おやつとして食べてしまわれたというお話をうかがいました。「内輪のお祝いの会で、桂さんのケーキを切り分けし、みなさんにお配りする予定が立たなくなってしまいました」と皇后さまからご連絡をいただいたとき、桂は即座に「同じものをお作りします」と答え、さらに一回り大きなものを作り、ご祝宴の当日に東宮御所にお届けしました。お二人はそれをウエディングケーキとして披露され、実際にケーキカットをして、ご出席のみなさまにお配りしたということでした。
(同p154)


森村桂と美智子さんとの交流は、森村の平成16(2004)年の死まで、約20年間続いた。

その間、紀宮さん(現・黒田清子さん)のウエディングケーキのことが、よく話題になったという。「必ず桂がケーキを焼く」と言っていて、みな楽しみにしていた。

だが、紀宮さんのご結婚は、森村桂の死の翌年だった。


森村の夫、三宅一郎によれば、森村桂と美智子さんの間には、特別な心の通い合いがあったという。


勝手な想像でもうしわけありませんが、皇后さまと桂の間には、特別に触れ合う何かがあると感じざるをえませんでした。桂と一緒にいらっしゃるときの皇后さまは、時間を忘れて話し込まれることがありました。あるときなど、女官の方から「実は何時何分に重要なご公務が入っていますので、ご主人、もうしわけありませんが、時計を見計らって、お二人にお話を切り上げるようご誘導していただけませんか」とお願いされたこともあります。そのように皇后さまと桂は、私が及びもつかないところで純な世界を共有されているように感じました。
(同p154)


その交流の舞台となった「アリスの丘」が、共産党の資産となっていて、共産党から売却された、というニュース。

上の文章を書いた三宅一郎氏は、共産党員だったということだろうか。(森村桂の再婚相手だった三宅氏は、日本ビクターに勤める一般人だった)

「アリスの丘」は2014年に閉店(ただ、その後も時々開いていた様子)。三宅氏は、記事によると3年前(2021年)に亡くなったわけだ。


もし、昨日の「アリスの丘」跡地売却のニュースをご覧になったなら、美智子上皇后とご一家は、複雑な思いとともに、昔を懐かしんだのではないだろうか。



作家・森村桂(1940ー2004)について、若い人はほとんど知らないかもしれない。

私の世代(いま60代)でも、あんまり知らないと思う。「天国にいちばん近い島」は、1984年に原田知世主演で映画化されたから(大林宣彦監督)、その原作者として知っているくらいではないか。


「天国にいちばん近い島」の出版は1966年。森村は20代でベストセラー作家となった。

同世代の女性のファンが多かったと思う。美智子さん(1934年生まれ)は、そういうファンの一人だったのかもしれない。


しかし、森村は、作家としてその後、伸び悩んでいた。


森村桂の父は、豊田三郎という作家で、戦前と戦後、二度芥川賞候補になっている。

だが、豊田三郎は売れず、家族は極貧にあえいだ。そして、桂が19歳のとき、豊田三郎は亡くなる。


その父の記憶があったからか、森村桂は、「天国にいちばん近い島」で一生食っていける財産を築いていたにもかかわらず、「自分が売れなくなる」恐怖に、その後ずっとさいなまれ、苦悶しつづけた。

さらに、最初の結婚に失敗したことで、心が深く傷ついていた。

彼女が軽井沢に「アリスの丘」をオープンさせたのは、三宅氏と再婚したあと、そうした心の傷を癒すためでもあった。


そのあたりのことは、『桂よ』を読むと、よくわかる。

この本は、作家の内面の苦しみを記録したものとして、名著だと思う。

この本を私は何度も読んでいたから、昨日の記事で、すぐに美智子さんの顔が浮かんだのだ。


そういう時期の森村桂と、美智子さんに「特別な心の触れ合い」と「純な世界の共有」が生まれたのは、美智子さんのほうにも、その時期、心の傷があったからではないだろうか。



軽井沢で、皇室と交流していた時期は、森村桂にとって人生最良の時の一つだっただろう。

その後、森村桂は心を病んでいく。


『桂よ』に記された、精神科病棟での森村桂の最期は、凄絶で、ショッキングだ。


「うんこだらけになっちゃった」

見ると、実際に、お尻にも足にも下痢をした便がついています。私はそれを拭き取り、便座に座らせてお尻のほうを洗ってやりました。ふと、桂のお腹が見えたのですが、赤い肉が何カ所か見え、そこから血がにじみ出しています。

「どうしたんだ、桂!」

驚きのあまり、私は叫んでいました。

「桂は死にたいの」

ポツリといいます。(中略)

「ナイフでお腹を刺したの。そしたら、血がたくさん吹き出してきた。ああ、これで死ねると思って、睡眠薬をたくさんのんで寝たの。でも、死んでるはずの私が、朝、目が覚めたら生きていたの」(中略)

桂のお腹には肉が見えるようなところが三カ所、ほかにもためらい傷のようなものが、お腹や足や腕に無数にありました。

(同p220)


それから間もなく、森村は亡くなる。

享年64歳。軽井沢「アリスの丘」が、森村桂の葬儀会場になった。


皇后陛下から賜ったお心のこもったお花が、桂の遺影のそばで見守ってくださった。位階・勲位を持たない一民間人であり、死因を異常死と報道された桂を送るに当たって、皇后陛下は御慈愛の深さを改めて示してくださいました。
(同p226)



<追記>

上の記事をアップしたあと、以下のようなXの投稿を見つけました。


遺族の方は共産党へ、せめてアリスの丘ティールームだけても残してほしいと言ったのに売却してお金に替えたそうです。著作権も何もかも寄付したそうで、お墓を建てるお金も残されていませんでした。遺族はお金を出しあって、この夏に西軽井沢にお墓を建てました。共産党は選挙資金に使ったのでしょう。遺族の気持ちや桂さんの功績を理解できない共産党は嫌いです。
(軽井沢・広川小夜子 2024/12/3 11:16)



<追記2>

アリスの丘ティールームでバイトをされた方が、その思い出をnoteに書いていました。美智子さんが来店された時のことも書かれています。↓


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