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モバイルバッテリーの岸政彦

物をなくすことが多い。
iPhoneはそこらへんにポンと置いてしまって忘れるし、ポケットに入れた口紅やリップクリームはいつのまにかいなくなっていて何本買ったかわからない。
最近だと、モバイルバッテリーが散歩にでかけてしまって困っている。可愛い子には旅をさせよというけど、帰ってくる気配はない。

わたしのiPhoneはケーブルの差し込み口が壊れていて、MagSafe(くっつけて充電するやつ)でしか充電ができない。
MagSafe対応のバッテリーは2台もっていて、社会学者・岸政彦さんのPodcastステッカーを貼ったものと、何も貼ってないものを交互に使っていた。
それなのに「岸さんじゃないほう」がいなくなってしまったもんだから、「岸さんのほう」を使ってはどこかに置きわすれるようになってしまった。
しかも毎日のように「あれ……岸政彦どこだろう……岸政彦…」と探しまわっているうちに、家族も「あぁモバイルバッテリーのことね」と理解してくれるようになってきた。

いまや、わたしのなかの岸政彦さんの予測変換は
「モバイルバッテリー 社会学者 小説家 ちくわおはぎきなこ 沖縄 生活史 大阪 …」
になっていて、ステッカーを貼っただけなのに、ご本人に関係のない意味がべったりとくっついてしまった。ふしぎなこっちゃ。

予測変換を下までたどっていくと
「トイレの本棚 二宮金次郎 あの植物 銭湯 パパイヤの語り」
といった、岸さんの著書にまつわる個人的な記憶や体験が並んでいる。
せっかくなのでいくつか紹介したい。

うちのトイレには本棚がある。
正確には、本棚というよりは階段下のデッドスペースを活用した飾り棚みたいなところで、前は置物とか花瓶とかを置いてたんだけど、いつの間にか本が増えていって本棚になった。
トイレは玄関近くにあるので出かける前に本を持っていきやすいし、子どもにいたずらされにくいし、とにかく便利で、自分の軸となる本や関心のある積読本を40冊ほど置いている。
ちなみに岸さんの全書籍もここにある。失礼かな。でも子育て中の身としては、トイレは生活の東京駅みたいなもんで、家の一等地なのだ。
そんななかで、いま一番手にとっているのが『にがにが日記』。日記の1日分ずつ、ちまちまと読みすすめている。
「隙間時間の有効活用!」とかそういうんじゃなくて、テレビのチャンネルをザッピングするみたいなかんじで、生活のなかに他人の人生がほんの少しだけさしこまれて、また生活にもどっていくような、そんな感覚でおもしろい。

生活に染み込んでいるような本もあれば、時間をこじ開けてくるような読書体験もある。

『断片的なものの社会学』は、電車移動中に読みはじめたら目的地についても本が閉じられなくて、歩きながら読みつづけて、改札の外で待ち合わせていたひとに「二宮金次郎かよ!」とつっこまれたことがある。(危ないのでやめましょう)。
だから東急東横線の大倉山駅には『断片〜』を読んでいる私の銅像が立っている、と東横線に乗るたびに妄想している。

あと『断片〜』を読み返すたびに、この植物の存在を思い出している。

かつて坂のあるまちに住んでいたとき、引っ越してすぐにこの子に出会った。コンクリートの割れ目からフェンスの境界をこえるように葉をひろげる姿がとっても素敵で、通るたびに「今日も元気にやってるね」と心のなかで挨拶ををしてた。
ある日、いつものように前を通ると姿が見えない。近寄ってみると、幹が根元でバッサリと切られてしまっていた。道路・住居・駐車場のちょうど真ん中に生えていたこともあって、だれかが迷惑だと思って切ってしまったのかもしれない。毎日の挨拶は不在の確認になった。
それから季節がいくつかまわったころ、また枝がぐんぐんと伸びはじめて、花が咲いた。堂々たる咲きっぷりだった。
わたしがこのまちに来るよりもずっと前から、この植物はこの隙間にいて、毎年誰かに大切に切り戻されているのだなとわかった。あの日、切られたのは排除ではなくて、生かされるための手入れだったのだ。
あれから数年。わたしはもうあのまちにはいないけれど、いまも毎年咲いては誰かに切りもどされているんだろうか、と思う。

…とまあ、いろいろ書いたけれど、目下の関心は、
いまのモバイルバッテリーがなくなったり、壊れたりしたあとも、わたしはモバイルバッテリーのことを「岸政彦」と呼ぶようになるのか? それともステッカーが剥がれたら、意味も剥がれていくのか?
ということ。
言語学〜!ってかんじだなあ。学校の勉強は苦手だったけど、大人になってから学問の扉がひらいているのを感じている。


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