むすこへ。友達との喧嘩に、白黒なんてつけてもロクなことはないと思う。
多感な時期。負けず嫌い。この年齢はだいたいそういうものだろうと思いながら、小学生男子のむすこの話を聞くようにしています。
むすこと友達との口喧嘩の話。負けず嫌い同士の会話をちょくちょく繰り返している様子です。
ある日、お互いの意見をぶつけ合う中で、「間違いを認めないから、辻褄合わないじゃんって突っ込んでいったら、何も話さなくなったから、間違いを認めたんだよ。」とむすこが言う。
僕は、正しいことを言ったんだというような感じで。
いやいや。君に対して、もう分かってくれない絶望感だったらどうする?お友達としては、話せば分かってくれるかもと話してみたけれど、なんだかんだ突っ込まれて、もう話すの嫌になっちゃっただけじゃないの。
認めたんじゃなくて、君に話すことをあきらめたから何も話さなくなったとしたら?
その場にいたわけじゃないから、わからないけどさ。
そんなに白黒をつけなければいけないことなんて、そうそうあるものでもないと思います。
余程のことでないならば、白黒つけずに、それもそうだねと、相手に花をもたせる心の広さは穏やかな日々を招いてくれる、自分にも。
それぞれに考えること、思うことがあって、意見なんて合うもんでもないし、自分の気持ちを飲み込んでまで合わせるもんでもなく、合わせることを求めないで応援してくれる人もたくさんいるのだなと、大人になる中でかあさんも学んでいるので、君にとやかく言えるほどでもないのですが。
なので、白黒つけようなんてせずに、お友達はそんな風におもっていたのかぐらいで時に受け止めてはどうでしょう。
僕の意見は、僕がしっかりと受け止めておけば大丈夫だよ。かあさんも、受け止めるし。とうさんだって、受け止めるはず。
必死に白黒つけようとして、目の前の大事な友達をなくしてしまう方が、ロクなことにならない。
むすこよ。それだけは、本当にそう思うよ。
ー
「京大変人講座」(三笠書房)の中で、山極寿一さんがお話されていました。ディベート(討論)ではなく、ダイアローグ(対話)することについて、こんなことを。
関西は、言い合いながら「おっ、それ、おもろいやん。ほな、こうしてみたら?」というように、お互いに提案しながら、しだいに形を変えて新しい場所に行き着く、これがダイアローグ(対話)なんですね。
手持ちが何もなくていい「発見方式」。自分の考えを言ってみる。すると、それに対して相手が修正案を出してくる。それに対してまた自分が発想していく。現場でのアドリブの発想が求められるわけ。
新しい発想を話すと、相手からクソミソにやっつけられる場合もある。どんどん孤独になってしまう可能性もあるけれど、それを恐れる必要はありません。要は「違う道を一緒に歩みましょう」ということ。同じ道を一緒に歩いたらどこかで煮詰まっちゃうから。
「違う道を一緒に歩みましょう」という言葉があれば、きっと平和な日々しかないと思いました。
白黒つけるのではなく、違う道を認め合いながら一緒に歩めるむすこの姿を楽しみにしています。
かあさんも、そうありたいです。
ー noteをはじめてみて1ヵ月。noteはそんな場所だとも感じるこの頃です。
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