本場メキシコ人ホルヘの本格&簡単ワカモレとアボガドとキューバとヘミングウェイの食卓
90年代勤めていた事務所はいろいろな国籍の若手の出入りする、楽しい事務所だった、と先々週週も書いたようにフランス人とドイツ人のインターンが多かったが、本当に皆個性的。
プロとしてデザイン事務所を奥さんと共同経営していたのにその奥さんが急に亡くなって、人生を考え直そう、と各国のデザイン事務所をインターンとして渡り歩いているスペイン人のアントニオなども印象に残る人物だった。
そしてみんなで自国の料理を披露し合う夕食会も時々開いた。
インターンは多かったが、給料をもらっていたのは私と、独立すべく徐々に勤務日数を減らし始めた私の後任として採用されたメキシコ人のホルヘだけ。
ホルヘはエンジニアとしてメキシコで学位を取っていたが、デザインがしたくてイタリア、ミラノのデザイン学校に入学し直し卒業した。
ワカモレのレシピは多くの人が投稿しているようですが、これは自慢の正真正銘本場メキシコ人からもらったレシピです。
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ホルヘはスポーツマンの好青年で、トライアスロンが趣味だった。。。。身近でトライアスロンをしていた人を他に知らない。
ただ、何故か会話が長続きしなかった。私のことが嫌いなのかと疑った事もあるけれど、他の人に言わせると、「いえ、彼は超シンプルであれが彼の全てなんだと思います。」との事だった。そんなことってあるだろうか。決して頭の悪い人ではないのだけど。。
そんな感じでホルヘの事はよく知らない。多分誠実で真面目な人柄だったと思うのだが残念ながらあまり書くことがないので、アフターレシピのエピソードは、アボガドというと思い出すキューバ旅行とハバナ郊外にあるヘミングウェイが最も長く住んだ家、フィンカ・ビヒアのことを書く事にします。
何故こんなレシピのブログを始めたかというと、実はフィンカ・ビヒアの訪問とその後調べたことが深く関係しているのです。
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<材料> 2-4人分
・アボガド 1個
・ライムまたはレモン 半個
・プチトマト 3-4個
・玉ねぎ 中 1/4個(好みで加減)
*今回はまろやかな味のトロペアの赤玉ねぎを使ったので中 1/2個
・イタリアンパセリ 少々
・塩 適量 2、3g
・タコチップス、トーストしたパンなどディップする物。
*これはメキシコ人のレシピですが、チリ人のアドリアンナはクミンなども入れていました。
個人的にはこのベーシックなメキシコ風の方が好みですが、たまにはクミン入りも良いかも。
<作り方>
1・プチトマト、イタリアンパセリは洗って、プチトマトは2つか4つに割っておきます。
玉ねぎはみじん切りにし、ライムまたはレモンは汁を絞っておきます。
2・アボガドは二つ割にし、種をぬき、身の部分だけをスプーンでくり出して、ミキサーに入れます。1すべてと塩加えます。
3・ミキサーにかけます。
*最初に教わった時にミキサーを使っているのを見たので習慣的に使っていますが、フォークで潰すのでも OK.
4・器に盛り付け、タコチップスやパンなどに付けていただきます。
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アボガドとキューバとヘミングウェイの食卓
アボガドというとキューバを思い出す。
行ったのは2014年。アメリカとの国交回復の少し前で、図らずも長閑な古いキューバを見る最後の年となり、幸運だった。
キューバの入国スタンプがパスポートにあったらアメリカ入国は出来ないか、入国審査で別室送りになった時代だ。
何故、アボガドというとキューバを思い出すのかというと、野菜の種類がとても少なかったように記憶していてトマトときゅうりとアボガドと他に何があったか思い出せない。。。でも、とにかくどこに行ってもアボガドだけはふんだんにあった。
欧米の経済制裁が長く続く慢性物不足の中にも、「ハスタ・ラ・ヴィクトリア・シェンプレ」 「この勝利を永遠に」、という革命の理想が、いまだに垣間見られた。
食のバリエーションは少なく、カーザ・パルティキュラルと呼ばれる民宿では毎晩のようにフライドチキンが出された。サンティアゴ ディ キューバの民宿で一度だけ牛肉や魚を出された事があるが牛肉には規制が大きく本来旅行者には出されないものらしい、と後から知った。
キューバは地政的には極めて難しい位置にあり、何世紀にもわたりスペインに支配搾取され、その後は支配下ではなくともアメリカに抑圧され、それでも革命で勝ち取った理想。
貧しい家庭が医療費を払えなくて子供が死ぬようなことがあってはいけない、と医療に力を注ぐキューバの医師団は、アフリカの貧しい国にも多く派遣されている。
キューバの児童死亡率は、圧倒的に豊かな国であるアメリカより、今でもずっと低い。
貧しい国でも、カンボジアのように子供が物乞いをする事もなく、子供達は路地で遊んでいた。どんな小さな町に行っても図書館とカルチャーセンターがあったが、図書館の蔵書はとても古かった。
明るくて規律正しい人々と、物不足と朽ちかけた街並みと、過去の(?)理想が共存していたキューバを思い出すと今でも愛おしく、悲しく、切ない。
そのキューバのハバナ郊外に、本業から脱線してレシピのブログを書くことになったきっかけになる、ヘミングウェイが最も長く住んだ家、フィンカ・ビヒアがある。
以下、クリスタル、アンティークテーブルウエアのブログ、ガレリア・カジョリカの方で書いた「ヘミングウエイのテーブル」の文章を抜粋します。
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Finca Vigía(フィンカ・ヴィヒア、日本語表記は普通ビヒア)は文豪ヘミングウェイが人生で最も長く(1939-1960) 住んだという家。キューバの首都ハバナの郊外南西約12kmのところにあり、現在はミュージアムとして一般に公開されています。内部には踏込めず窓の外から鑑賞するのですが、どの部屋も窓が大きく想像以上によく見えました。
観光客は皆タクシーでのりつけますが私は市バスで行きました。その土地の公共交通機関に乗らないとその国の文化は判らない、というのが持論です。ハバナにはバスのルートマップという物がないのでルートをあらかじめ知っている人しか乗れません。当然、観光客は全く見かけない。でもキューバ人は道をを訊いたり、何処に行くにはどのバス停で降りるか等を尋ねるととても親切。私が住んでる国の人達みたいに自信を持って間違った事を教えたりせず、皆かなり正確で、自分が先に降りる時は、必ず誰かもっと先まで行く人を見つけて、託してくれます。
ヴィラ・フィンカ・ヴィヒアは熱帯植物の生茂る広い敷地の中にありオアシスの様。家の中はどの部屋も鹿の頭の剥製が飾られていてヘミングウェイの狩猟好きぶりがうかがえます。私個人は反狩猟派ですがこの家にはハンティング・トロフィーは欠かせない存在の様に思えます。
テーブルウェアも上下写真のように極上の趣味ですが、この家に6ヶ月暮らしたというヘミングウェイの最後の秘書で義娘のヴァレリー・ヘミングウェイはミュージアムになった後にここを訪れ「私がこのダイニングルームで見たのは重たい木のテーブルや陶磁器等ではなく様々な料理とワインと会話と笑い声だった」と書いています。
確かに「物」達はあくまで暮らしの脇役。使う人がいて、その人なりの使い方があって初めて生きるのかもしれません。
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ミラノの自分のことに戻ると、90年代ミラノに来て新鮮だったのは、ミラノのデザインの若手の同業者が集まると、「デザインの使命とは」「生活の質の向上とは何か」みたいな話になった事。
それは当時の日本の同年代の同業者とはトレンドとかオシャレとかちょっといい感じ、とかいう感覚的なことしか話せなかったのに比べると、だいぶランクアップした意識の様に思えた。
あれから30年以上、時代は変わって「デザインの使命とは」「生活の質の向上とは何か」などという話をするデザイナーは、ミラノでも極一握りになってしまった。デザインの都と言われるミラノでは国外からも多くのデザイナーがアプローチしてくるため、イタリア人も否応なく国際的な競争を強いられ、自分のビジネスの領域の確保で精一杯の人も少なくない。
ではクライアントとなるメーカーの方は、というと第二次世界大戦後事業を立ち上げた個性的な創業社長たちの大半は引退し、一部の有名メーカーは外国の投資ファンドも経営に介入して来ている。資本力でメジャーなイメージはキープ出来てもイタリアらしい独創性の強いデザインが生まれにくくなっているのも事実だ。
プロダクトデザインは特に、「物」のデザインが人の生活の向上に貢献した時代は20世紀だったのではないかと思えてくる。
長年、プロダクトとインテリアのデザインをして来たけれど、一番大事なのはやはり、「人と時間」なのではないかと思う。
それに「生活の質の向上の貢献する」仕事を長年して来たのだと考えると、一見本業からこんなに脱線したように見えるレシピのブログを書いていても、デザインの仕事の延長線上の作業のようにさえ思えて来るのです。
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