「役者は一日にしてならず」杉良太郎編
杉様ですよ。
私にとっても、大スターの杉様です。
私の一番印象に強いのは「新五捕物帳」。
エンディングテーマの「明日の詩(あしたのうた)」を聴きながらしみじみ涙を拭うほど、子供だった私には刺さる番組でした。
この歌を自分で歌ってみようとして、特にサビの部分
『明日の詩を歌おう』の『歌おう』が、なかなか上手く歌えない。
『う〜た おぉ〜ぉ〜』
なんとも滑らかな歌い方!!!
強すぎず弱すぎず情け深く優しく。
新五親分のお人柄をしのばせるような最高のエンディング曲です。
そもそも私は東野英治郎の「水戸黄門」(再放送)、中村梅之助の「東山の金さん捕物帖」(再放送)と「伝七捕物帖」、さらには大川橋蔵の「銭形平次」(再放送)を幼少期に見ていて大ファンだったせいもあって、江戸の岡っ引きが大好き。
杉良太郎はちょっとやんちゃな感じがまたカッコ良かった。
このインタビューを読み始めて、役者になる気はなく最初は歌手だったと知って、だからこんなに歌が上手いのかと納得がいきました。
父親が、芝居鑑賞が好きすぎて自宅を【掛け小屋】にしていた。一座がとっかえひっかえ出入りしていて、芸やら演劇やらをしていたのでしょう、舞台が終わると役者さんが風呂を使う。白塗りが落ちて風呂が汚れる。掃除をするのは良太郎の仕事だったんじゃないでしょうか。
「『役者は汚い』という印象がありました。
それからお客様に媚を売る様も苦手でしたので、幼い頃から『役者はやだなぁ』と思っていたのです。
子供の頃は船乗りになりたいと思っていました」
それでも、歌が好きだったので数々のコンクールに出てチャンスを掴み、東京へ出るもなかなか売れず。
事務所が役者の仕事を持ってきて、何度も断っていたけれど強く説得され引き受けた。
すると次から次へと役者の仕事が続く。
「サンケイスポーツの記者に知り合いがいて、『1ページ載せてもらえませんか』と頼みました。その記事をNHKのプロデューサーが見て」
「オーディション会場に行ってみると『時代劇の新番組で大工の役をやる役者を探している』とのこと。『主役はどなたでしょうか?』と聞きました。『主役は決まっていない』との答えに私はすぐさま『それなら主役をやらせてください』と言いました。」
それが、
松本清張の原作を杉山義法・倉本聰といった気鋭の脚本家たちが現代劇化し、和田勉らNHKを代表する演出陣が映像に切り取っていったNHK時代劇『文五捕物絵図』でした。
なんという掴み方。
すごい、の一言ですけれども、これはやっぱり幼少期から、自宅が芝居小屋な訳ですから多くの芝居や芸能をナマで見て育ってきた素養があったことと、表側を見て憧れていただけではなくて、風呂で白塗りを落としたり汚れた様を見ていたからこその、役者だって普通に人間…とでも言うんでしょうか、『だったら主役やらせてください』と言い出せてしまうノリの軽さ?…これが役者を始めて2年目だというのですから、感嘆するほかありません。きっと、やらせてみよう、と思えるだけの自信や気迫のようなものが溢れていたのではないでしょうか。
もちろん、イケメンだったこともありますし。
そこからは時代劇スター街道まっしぐら。
この文五捕物絵図が1967年(23歳)で、同い年の前田吟は俳優目指してたのが17歳とすると6年目、平泉成は19歳から俳優していたとすると4年目。彼らが周りの大物俳優の背を見ながら必死でとにかく量をこなして脇役のなんたるかを独自に開発していた頃、
本当になりたかった歌手は出来ずにいたものの、杉良太郎は経験年数こそ少ないけれどガンガン主役を張っていた。もう大スターで、番組のプロデューサーが杉良太郎の言うことをきくというエピソードがこのあとにある。
「『水戸黄門』に関して言うと、ナショナルの逸見稔プロデューサーから声を掛けられました。でも断ったんです。しかし『あなたに断られたらこの番組は成立しない』と逸見さん、電通、その他周りの方々に説得され、しぶしぶ出演することにしました。最初、黄門役は森繁久弥さんでした。ところが、直前になって東宝所属の役者を東映制作の作品に出すのは難しいということになり、制作側から『杉さん、他に誰かいませんか?』と聞かれ、『文五でおとっつぁん役をしていただいた東野英治郎さんがいい』と答えました。」
うをぉぉぉ!まさかの!
東野英治郎黄門様誕生は、杉良太郎のお陰だったのか!と。
そして、なんなんだこの展開は?!
杉良太郎って殿様か?!
大スターになると、こんなことになってしまうんだ…と、感動しながらもちょっと笑わずにはいられませんでした。
同い年である前田吟や、平泉成との展開の違いにも、感慨深いものがあります。
黄門様は、やっぱり東野英治郎が一番好きだという声を、私の周りではよく聞きます。もちろん私もそう思っていて、どうしても黄門様は東野英治郎なんです。ほかの俳優さんも良いんです、でも譲れない、深い愛情にも似た感情が東野英治郎黄門様にはあるんです。
まさか杉良太郎の縁で成されたものだったとは...。
これは杉良太郎に感謝しなければならない新事実でした。知れて良かった。
そして夜8時台、当時のゴールデンタイムで一番人気の時代劇を十数年に渡って二本掛け持ちで出演するも、周りの反対も押しのけ深く深く一年以上悩み続けたのちに自分から降板することを決意。
それは、時代劇が当たると時代劇ばかり。刑事モノが当たると刑事モノばかりやりたがるテレビ業界のやり方、自分という役者の使われ方に抵抗したかったからであると。
「立ち回りもしっかり習っていない。演技も習っていない。先生もいない。歌手出身で芝居の基礎もなく。名優の息子でもない。どこで湧いたか分からないボウフラ役者。そんな私がこの世界で生きていこうとすると、『身分が違う』とイジメのようなものに遭う時代でした。そこに抵抗して、激しく力一杯やってきました。そしてある日、自分流を作ろうと思ったんです。『杉演劇』を商業演劇の中に確率させようと。
…いや、そうだよね…と思いました。
いくら視聴者からウケていると言っても、撮影中の立ち回りなどを見ていれば経験者かそうでないかは一目瞭然だったでしょうから、言葉には出さずとも同業者からの目は冷ややかだったかも知れません、これでよく主役やってるな…みたいなことが。あの主役はこれも出来てなかった、あれも出来てなかったと、そこらじゅうで噂されててもおかしくない状況だっただろうと想像します、普通そうなりますもんね。
なのにプロデューサーは杉の言いなりだ、と。
同じ世代との和気藹々とは程遠い、四面楚歌も感じていたかもしれませんね。
「役者は口を出すなという意見もありましたが、視聴率を背負っているのは主役です。視聴率が下がった時、『お前はもう人気がないから』と降ろされるのは監督でも脚本家でもなく、主役なのです。ですので、作品を良くするための責任があると思っていました。
私は常にただのプロではなく、プロ中のプロでなければいけないと思っています。」
番組づくりへの弛まぬ試行錯誤と挑戦の話。
時代劇衰退の原因についての所感。
《座長》以上の《座頭》としての活動。
座長公演は2005年に勇退した。
それらを読ませてもらってからの
「私が考えている芝居をやれなくなった原因は岡田英次さん、青木義朗さん、内田良平さん、南原宏治さん、石井均さんなど長くご出演いただいた方々、一緒にやってきた仲間がみんな亡くなったこと。今、この人たちが生きていてくれたら私もまだやれたのではないかと思います。
役者は一人ではできません。」
…どんなに人気があろうと、現場では四面楚歌だったスター街道からのスタートが、こうして仲間を得られた結果を持って終わっているというのは、私には涙が出るほど感動的なエンディングでした。
読めて良かった。
また改めてここでも、春日太一さんありがとうと言いたい気持ちです。
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