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大西寿男著『校正のこころ 積極的受け身のすすめ』

作家や編集者、翻訳者など、いくつか思い浮かべる「言葉」や「文章」に関わる職業に比べて、誤字脱字や表記ゆれ、文章の構成や文法の使い方、内容矛盾の有無の確認など言葉を正す仕事である「校正」の認知度はそこまで高くないのかもしれない。
 
しかし、校正という仕事自体は、儒教の始祖といわれる孔子の時代から存在したとされている。
日本では、当時国策として仏教の興隆を推進していた関係上、大量の経典が必要(つまり、手書きによって経典を筆写しなければならなかったため、正しく筆写されているかの校正が必要だった)とされた奈良時代から、職業として確立されていた。
 
しかし、古くから言葉を支える職業であったにもかかわらず、校正が日の目を見ることはほとんどなかった。

そんな状況に光が見え出したのが、2011年に出版され映画化もされた三浦しおん著『舟を編む』だ。
それまであまり知られることのなかった、言葉と向き合い辞書を編纂する仕事人の真摯な姿に多くの人が胸を打たれ、種類は違えど同じ言葉と向き合う校正がにわかに注目を集めた。

2013年には、新潮社の校正(校閲)に言及した、作家である石井光太が投稿した内容がバズり、SNSを使う世代を中心に、その認知度を高めていった。

そして、僕も当時観ていた石原さとみ主演の2016年放送ドラマ『校閲ガール』(原作は宮本あや子著の同名小説)により、作者や編集者と議論を深めながら言葉を整える校正・校閲の仕事が多くの人の目に触れることとなった。

ちなみに上記の「校正」を巡る世の中のブームについて、本記事で取り上げる『校正のこころ』を書いた著者はこう振り返っている。

それまで初対面の人から仕事を訊ねられて「校正です」といっても通じないことが多く(テレビ番組の構成作家とまちがえられたこともありました)、「本をつくる仕事です」とお茶を濁したりしていたのが、このドラマのおかげで「校正の仕事です」と胸を張って(?)答えることができるようになったのはうれしい驚きでした。

大西寿男『校正のこころ 積極的受け身のすすめ』創元社(2021年)169ページ

本を形にするために存在する校正者は、編集者と同じく欠かすことのできない職業だ。
作者が熱意をもって書き、編集者の工夫による手が施された後、校正者がその言葉たちを様々な角度で正し整える。言葉の面から出版物の内容を担保し、やがて読者の元へ羽ばたかせる。出版過程における校正者は、まるで最後の砦のような存在ともいえる。

 
今年1月に放送された『プロフェッショナル仕事の流儀』に出演した際は、「言葉の守り手」として紹介された著者。
中学時代から小説を書くほど文学が好きで、大学卒業後は編集者になりたかったが、知り合いからの依頼がきっかけで、言葉を正すこの仕事に35年以上打ち込んできた。
 
今や文壇きってのヒットメーカーである池井戸潤の『陸王』や、2020年の芥川賞を受賞した宇佐見りんの『推し、燃ゆ』、わずか17歳で作家になった綿矢りさのデビュー作『インストール』に、文藝賞受賞作である羽田圭介の『黒冷水』など、数々の文芸作品をはじめ、人文書や実用書、新書から専門書まで、実に幅広いジャンルの校正を担当してきた。

単に言葉の遣い方が正しいか否かを確認するにとどまらず、作品全体の世界観として書かれている表現が正しいか、言葉の表面には現れなくてもその裏に差別意識を感じさせるものはないかなど、まさに言葉のプロフェッショナルとして依頼者の期待を超える指摘を出してきた著者。
徹底的な事実確認や他の追随を許さない丁寧な仕事ぶりから、フリーランスの校正者として35年以上もの間、仕事の依頼は絶えないという。
 
一連の校正ブームによりその職業の概要は知っていたつもりだが、本放送回を観て実際に校正者として長年キャリアを積んできた著者の仕事風景を拝見したことで、僕の心は打ち震えた。

詳しく所見を語りたいところだが、本記事の主役はあくまで書籍のため、これ以上は割愛させていただく。
ただ、日常的に文章を書いたり読書をする人、ましてや校正に少しでも関心があるのなら、本放送回の内容は非常に学びが多い。2024年1月13日までNHKオンデマンドで視聴可能(有料220円)なので、興味があれば観てみてほしい。
 
ちなみに、本放送回『プロフェッショナル 仕事の流儀「縁の下の幸福論〜校正者・大西寿男〜」』は、日本の放送文化の向上に貢献した番組・人・団体に贈られる賞であるギャラクシー賞(2023年1月度月間賞)を受賞し、大きな反響を呼んだ。前述した一連の校正ブームに、また一つムーブメントが続いた形だ。

当番組を観て、しばらく胸の中に熱いものが渦巻いていた頃、本屋を訪れた際に偶然本書を見つけ手に取ってみると、そこに書かれている、まるで言葉の海に潜りこんでいくように1文字1文字言葉と向き合うその真摯な姿勢に、僕はまた虜になった。
 
特に印象に残ったのが、タイトルにもある「積極的受け身」の態度だ。

校正者が積極的に主体性をもって受け身となって言葉に寄り添い(ゲラの言葉にとってどうなのかということだけをつきつめ、言葉の自律性を尊重し、支え、援助する)、受け身であることを言葉の理解のために、よろこびとも武器ともする、という意味で、私はこれを「積極的受け身」の態度と呼びたいと思います。
(中略)
その意味において、校正者とは、ゲラに寄り添い、ゲラの言葉がより生き生きとみずからを発見し、広い読者の世界へと独立していくその手助けを「積極的受け身」という専門的な援助の方法でおこなう、言葉にとっての助産師さん、あるいはカウンセラーだ、ということができるでしょう。

大西寿男『校正のこころ 積極的受け身のすすめ』創元社(2021年)66、102ページ

作者の元を離れた言葉に備えられている自律性を汲み取ることで、言葉本来の力を引き出そうとする姿勢が積極的受け身だとするならば、窮屈な思いをしている言葉のSOSを一つ一つ拾い上げる校正という仕事は、我々が想像している以上に重要なものだと感じる。

と同時に、言葉は僕たちと同じ生き物であり、それを書く作者もそれを受け取る読者も、言葉を単なる記号として捉えるのではなく、その中に秘められた体温や息遣いを感じる必要があるのだろう。

そのためにも、機械的に言葉の整合性を確認しているだけでは決して成功しない、「積極的受け身」によって言葉の秘めたる力を最大限引き出しながら、作品を作者と同じ温度で読者に届けようと日々奮闘する校正者の仕事ぶりに、僕はただただ敬服した。

その言葉たちが、やがて読者の中で自立し育っていく様子を見れた日には、校正者は言い難い幸せを感じるのだろう。
あくまで想像するほかないが、僕がこれまで読んできた本の中にも、数えきれない校正者がその言葉たちを支え続けてきたと思うと、今は感謝の気持ちしかない。
 

そんな言葉のプロフェッショナルである著者からしてみれば、現在の栄華を極めたインターネット社会には、あまりにもささくれ立った言葉が乱立し、それらが顔の見えない人同士での争いとなり、お互いを傷つけ合う原因になっていると嘆く。

インターネットがない時代、不特定多数の人に向けて言葉を発信し形に残すことができたのは、言葉を届けるプロである作家や文化人、記者などの一部に限られていた。

しかし、今はその意志さえあれば、誰もがスマホやパソコンから不特定多数のユーザーが存在するインターネット空間に言葉を投げかけることができる。しかも、送信ボタンさえ押してしまえば、その言葉は国境さえも越えて世界中に駆け巡ってしまうのだから、改めて考えると恐ろしい仕組みだなと思う。

SNSやインターネットの掲示板、ニュース記事のコメント欄、まとめサイトなど、良心的で親密な対話や情報交換もたくさんありますが、なかには目を疑うような、吐き捨てられた言葉、一方的でむきだしの感情の廃棄場と化している現場に愕然とします。
(中略)
満足に育てあげられることも、肉体を与えられることもなく、生まれたままの裸の姿で力なく、世間の厳しい風にさらされているかのようです。あるいは、中身がしっかりと根づいていないのに、立派な衣装を着せられ、強がって大きな声をはりあげているように映る言葉もあります。
(言葉には)その一つ一つになお“いのち”があり、どんな声であっても、すべての言葉がみずからのあるべき姿を発見し、回復できるよう、援助される価値と権利をもっています。

大西寿男『校正のこころ 積極的受け身のすすめ』創元社(2021年)150~153ページ

前述した『プロフェッショナル仕事の流儀』では、そんな裸の言葉たちを「言葉が泣いている」と表現した著者。

言葉は私たちのコミュニケーションにおけるツールである以前に、言葉自身が、そのいのちを全うする価値と権利をもっている。人生をかけて無数の言葉たちと向き合い、その声に耳を傾けてきた著者だからこそ言葉たちの真意に気づき、僕たち読者にそのことを教えてくれている。
 
本書を通じて、校正のこころは校正者だけのものではなく、言葉を扱うすべての人に必要なものであると痛感した。
僕自身も言葉を話しコミュニケーションをする人間として、また世界の片隅で文章を書く物書きとして、いつまでもそのこころを忘れずに憶えていたい。

そして、真の意味で言葉を紡ぎ、誰かにその言葉を正しく届けることができたなら、こんなに嬉しいことはない。校正のこころは、無名の物書きである僕にすら、そんな夢を与えてくれている。


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