【試論】緻密に設計された欠陥―『ポリフォニック・剥落』を読んで―
ツマモヨコさんと仲内ひよりさんが発行したZINE『ポリフォニック・剥落』を読んだので、その感想を簡単ながら書きたいと思う。正直なところ、かなり衝撃を受けたというか刺激を受けたというか、デザインや短歌の完成度の高さに終始圧倒されながら読み終わった。
1.仲内ひよりさん:〈口語感覚と短歌定型のジレンマ〉
仲内さんの歌にはリフレインが多くて、これは口語短歌的な特性ではないかと思う。「埋もれる」と「生まれる」が似ているという感覚は、完全に言葉を文字ではなく音で捉えているからこそのもので、仲内さんの歌からは自然と染みついた口語感覚が強く感じられた。三首目の〈うまく浮かんで〉が個人的に気に入っていて、ふつうなら「高く浮かんで」や「低く浮かんで」となるところ、〈うまく〉という叙景ではない主観的な表現に持っていくのが、自分の感覚に自信を持っているかつ読者を信頼しているようで好きだ。もちろん、〈う〉のリフレインという狙いもあるだろう。
リフレインが生み出す効果としては〈循環〉があって、仲内さんの歌ではその〈循環〉自体、あるいは〈循環〉から逃れようとすることが〈循環〉に囚われていくプロセスであることを主題にしているように読んだ。
〈迷わず〉なのに〈迷子〉になってしまうという矛盾。「曲がる」や「回る」のもつ〈循環〉的イメージが効果的に使われている。生命の誕生はもっとも大きな〈循環〉である。それを神の字をもつ街で見ているというのは非常に暗示的であり、われわれは神によってつねに〈循環〉させられている存在なのかもしれない、と思わされる。
また、仲内さんの歌には〈街〉も頻出し、これは〈循環〉に近い主題〈囲繞〉を引き連れてくる。最初の引用歌でも〈感情が嫌い〉という感情も結局ひとつの〈感情〉という囲いに回収されてしまうし、〈わたしからわたしが離れたい〉という独特の感覚自体が皮肉にも〈わたし〉の輪郭を強化してしまう。〈循環〉と〈囲繞〉が近いのは、とうぜん循環するものはつねにわれわれの周囲を取り込むからである。
一首目は、このZINE内でもとりわけ好きな歌である。海を街で囲めば湖になるというユニークな発想はしかし、海自体のもつアイデンティティを揺るがす問いかけでもある。囲まれただけで存在が変わってしまうことへの心許なさがぽつんと浮かぶ。白線で囲まれた事件現場で、事件がそのなかでだけ起こったという考えはあきらかに誤ったものとして提示されている。加害者にも被害者にも外部の生活があり、われわれの身の回りにも事件は溢れているはずなのに、そこには想像が及ばない。これは戦争のニュースをテレビや新聞のなかの出来事だと捉えてしまう現代人への鋭いアンチテーゼになりえている。そして〈額縁〉というまさになモチーフのあらわれる三首目。感情は額縁に収まることはなく〈はなから〉はみ出してしまう。これらの歌において、「囲い」はポジティヴな意味で捉えられていないように思える。
これら〈循環〉や〈囲繞〉の主題は、言うまでもなく短歌定型の異化として機能している。短歌において、5と7は循環しているし、つねにわたしたちの言葉は定型に囲まれていて、それによって言葉は様相をまるで変えてしまう。そのことへの憧れと恐怖。感情はいつだって定型をはみ出して、作者や読者へと浸潤してゆく。しかしながら、定型からはみ出そうとすること自体が、却って作者や読者に定型の存在を強く意識づけてしまう。
こうなったとき、〈埋もれるは生まれると似ている〉と感じる口語感覚と短歌定型は良くも悪くもいがみ合っている。話し言葉はいつでも瞬間的に消えて行ってしまうが、それは短歌の性質上、定型という器のなかに記述されてしまう。仲内さんの歌は、こういった口語感覚と短歌定型の間にある摩擦・ジレンマにとても懊悩しているようにも、とても楽しんでいるようにも見える点が大きな魅力だと思う。
2.ツマモヨコさん:〈緻密に設計された欠陥〉
ツマさんの短歌の良さは激情のあとの冷静さというか、丁寧さと粗雑さの絶妙なバランス感覚にあると思う。みんなの生活のなかでの細かい営為とか変化のタイミングを気にしつつ、その自分に「黙りたい」とシニカルにツッコむ感じ。自分の身体感覚である首には「真面目な重さ」という独特な措辞を用いながらも、人からもらったバームクーヘンに対しては「なんか」で雑にいなす技法。水風船を投げつけるという幼稚的な衝動と、その水風船に謝りたいって思ったり、さらには平日だから公園(?)に人が少ないっていう冷静な判断は大人によるものだと感じさせられる。また、漢字とひらがなの使い分けも丁寧さ・粗雑さ、あるいはテンションの低さ/高さを表すようにコントロールされている。
そもそも短歌って激情とは相性が悪い気がしていて、文字として記述されている時点でそこには時間の経過があり、ある種の冷静さを読み取れてしまう。けれど、ツマさんの短歌ではそれを冷静に記述できている事実が怖いというか、直前にあったであろう激情を鋭利に抉り出す感じがある。そのためにどこを丁寧にしてどこを粗雑にするかのバランス感覚がひじょうに優れていると思う。
短歌は〈記述されている〉という過去性から逃れることは決してできず、それゆえに感情の熱さを保温することが難しい。
その過去性を突破し、瞬間性を志向しようとしたのが穂村弘であり、初期の『シンジケート』では刹那的な性格の女性像を登場させながら「 」を使って短歌を台詞に移し替えて、のちの『手紙魔まみ』ではそのエキセントリックな少女を主体に憑依させることで「 」を外すことに成功した、というのは川野里子や瀬戸夏子が論じたことだが、反対に、感情の冷たさこそを保存しようとしたのが永井祐であり、彼は助詞を省いたりせずに丁寧に冷静に状況を書くことで、感情の熱さではなく冷たさなら短歌で保温することができる、と示した。これが僕の非常に雑な口語短歌(というよりもニューウェーブからポストニューウェーブへの変遷)の歴史の把握である。
このテンション感の差は一目瞭然である。これが僕の考えたい口語短歌における丁寧さ・粗雑さ=感情の温度の低さ/高さの問題である。じっさい、穂村弘は『短歌という爆弾』のなかで「作品内部のデータの意識的な欠落を利用して逆に詩的実感を強化する手法」について論じている。ここでは主に目的語の排除がフィーチャーされているけど、それは単語選択の質や助詞の省略、文法上の正誤まで敷衍して考えられると思う。
このZINEでトップレベルに好きな二首だ。一首目はあやうい感覚の例に「紙コップ越しの冷水」という通常思いつくことができない独特な感覚が提示されたあと、「落日」に向かって次第に抽象的になっていく。二首目は逆で、「心ごとあげる」という曖昧でテンションの高い宣言に対し、下の句に(抽象的ではありつつも)かなり限定的で冷静な宣言が付与されることで一首としての重心を安定させている。めちゃくちゃ極端に言えば、上の句は穂村弘っぽく、下の句は永井祐っぽく思える(※これは言い過ぎかもしれず、「心ごとあげる」のテンションは初谷むいに、「大きな街にあるタワーすべてに登らず生きる」の分解具合・シニカルさは初期-岡野大嗣に似通っていると言った方が適切かもしれない)。
このように先人が確立してきた手法の合わせ技で、感情の落差を利用するというのは〈ポスト・ポストニューウェーブ〉におけるひとつの技法だと思う。
上の句の丁寧な所作に対する丁寧な描写が、最終的には「ガキ」という〈雑〉な言葉に回収されていく。「子供」ではなく「ガキ」であることがやはり重要で、そこに計算された〈粗雑さ〉を感じる。ツマモヨコさんが発行したネットプリントで、
という好きな歌があるのだけれど、この歌にも似ている構造を見出すことができる。そのひと(ここをひらがなにひらく効果も、言語化しにくい次元で作用している)は映像として「楷書のような」—つまり端正でキリッとした顔立ち(あるいはスーツ姿まで……)を思い浮かべるのだけど、すぐあとに「天気予報に悪態をつく」という程度の低い行為を添えられることで、前半の印象が宙吊りにされ、不思議な読後感がもたらされる。
言い方が適切か分からないけれど、一首のなかで蛙化現象(流行ったほうの意味での)をつくりだしている気がする。一首内でわざと単語選択の質や喚起する映像の解像度、文法上の正しさのトンマナを揃えないことで詩が生まれている。
そして、ここでは穂村がかつて論じた「作品内部のデータの意識的な欠落」に対して自己言及・自己指摘を行う構造が見られる。この歌では明らかに前半と後半における視点のメタレベルが異なっている。「破裂するもの」を具体的に指定しないのも、「破裂するものを指定していないことを指摘する」のもどちらもツマさんの書き振りによる。この視点のメタレベルの急な切り替え、映像の唐突な鮮明さや不明瞭さが読者に〈驚異〉を与え、ツマさんの詩を強化しているのだと思う。
そう考えたとき、この装丁や『ポリフォニック・剥落』というタイトルも象徴性を帯びてくるというか、ツマさんの短歌の魅力のひとつである〈丁寧につくられた粗雑さ〉〈緻密に設計された欠陥〉みたいなものと同じ雰囲気が感じられてくる。