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人は貢献したがっている!?_本の感想「14歳からのアンチワーク哲学」

ホモ・ネーモ著「14歳からのアンチワーク哲学」という本を読みました。

あまりにも生活に密着している「労働」周りの常識や思い込みについて 「一般的常識を持つ少年」と「謎の哲学者」という二人の登場人物の対話形式で今一度問い直す本である。

世間的に働くことは無条件的に良いこととされている。 人々は失業を恐れ、有償労働することを求める。 でも、良いこととされているのに、なぜ我々はこんなにも労働によって許容度を超える苦しみを感じるのか?
労働で体を壊し、
世の中に必要な、例えば家事・子育てといった無償的労働や介護・農業・物流などエッセンシャルワーカーの待遇は低く、
世の中に必要どころか害悪にもなるお金を動かす為だけの政治的な仕事(ブルシット・ジョブ)の待遇は高くなる。
生産性をいくら上げても体感的にその豊かさを実感できることはない。
明らかに「労働」というドグマに対して深刻なバグが発生しているといえよう。
季節や風土によって快適に過ごす服に衣替えをするように、常識にもまた衣替えが必要である。
この本は「労働するのは正しい、仕方ない」という思い込みに風穴を開けてくれるかもしれない。


この本を主張を短くまとめると
労働なき世界でも社会を回すことは可能である」というアンチワーク哲学を主張する。
・・・・。一体どうゆうことなのか?


謎の哲学者は、労働を「他者から強要され、受けた側が主観的に不愉快と感じる営み」と定義する。
なので、「有償の仕事」という狭い範囲ではなく、あらゆる営みが、判定の対象となる。 主観的というのがキモである。同じ営みであっても人によってはそれは労働になるし、労働にはならないのである。
例えば、料理という営みをする時。
「めっちゃいい料理つくって、ゲストを喜ばせるぜ!」と自発的につくるAさんの場合は、労働度は低く、自発性が高く、快楽を感じる。 生産力もあがるかもしれない。
一方で、何か(生活とか)を人質にとられ、「食事をつくれ!」と命令されたBさんの場合は、労働度が高く、自発性は消滅し、苦痛を感じる。 生産力もさげてしまうことだろう。


「不本意なことを拒否できず強いられる」から労働行為は辛いのである。
ではどうすればいいか?
「既存の社会保障を削ることなく、増税することなく、新しくお金を発行して、ベーシックインカム(皆に一定額のお金を配ること)をすればいい」と著者は主張する。
お金はそもそも石油みたいに物理的有限性を持つものではなく、人間の脳内しか存在しない書き換え可能なスコアボードみたいなものである。なので、足りなければ増やせばいいのだ。


「働かなくなる人が増えるのではないか?」という疑問がわくだろう。
まず、今は働いている人の内、ブルシットジョブ(働いている本人でさえも、価値がないと考えている無駄な仕事)をしてるという人たちが約4割もいるのだ。
なのでそもそも働かなくなる人が多少増えても問題はない。

そして、ここが特にユニークなポイント。「人には貢献欲なるものが存在しているのだ」と哲学者は主張する。
例えば、料理をつくって誰かに振る舞った時、掃除をして部屋を綺麗にした時、人を助けた時、苦労して何かをつくった時など・・・
なんか気分がよい、明らかに快楽を感じている。周囲に影響を及ぼしたという快楽を。
たしかにっ・・・!
そしてこの快楽は、不快な強制が少なく、自発的にやった時にこそ最も増大する。
極上の食事や遊びにも匹敵するこの快楽を得ることを諦める人はそうそういないだろう。


だからベーシックインカムなのだ。
ベーシックインカムがあれば、不快な強制に対して、拒否権を行使しやすくなる。
さらにつけ加えるならば、既存に仕事の管理的で強制的な仕組みの要素の割合を減らし、裁量的な仕組みの割合を増やすのもいいかもしれない。
例えば、「仕事の進め方を自分で決められる」「スケジュールを自由度を高くする」とか。
そうすれば、「働かなくなる人が増える問題」はクリアできそうである。
いかに、人々の自発性を喚起するのか。これにかかっているといえよう。


著者の人類に対する見方はとてもすがすがしく明るい。
我々は、日々のネガティブなニュースと強制を強いられた経験から、
「人は失敗や怠惰を繰り返すどうしようもなく悪くてダメや奴」
「なので強制をもっと強化しないと人は働かない」と考えてしまう。
私も反射的にそう考えてしまうことがある。
でも、この考え方こそが、より苦痛に満ちた社会を維持してしまう可能性があるのではないだろうか?
「管理を増やせば、失敗ゼロで生産力があがる」という考え方では、人は貢献欲を失ってしまうのだ。

ここは思い切って賭けにでるのもいいのではないか?
怠惰な人を管理によってゼロにする必要はない。
「人類は貢献をしたがっているイイ奴ら」という考え方をあえて戦略的かつ積極的に取り入れてもいいのではないか?





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