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ゴミ箱が消えた世界で起こること
ゴミ箱がなくなった。
普段通るバス停までの道のりに、一際目立つゴミ箱があった。
月極駐車場に設置された自販機の横、缶とペットボトル専用の、どこにでもあるゴミ箱。
でも、そのゴミ箱はいつ見てもパンパンだ。
ゴミを入れる穴から缶やペットボトルがはみ出てることはおろか、マクドナルドの紙袋やドリンクカップ、スターバックスの紙袋やドリンクカップ、なんの紙がわからないくしゃくしゃの紙まで平然と、ゴミ箱の周りを取り巻いている。
数十メートル離れたところにも同じ自販機とゴミ箱があるのにも関わらず、そのゴミ箱だけいつもパンパンというか、異常に散らかっているのだ。
片付ける人がいないわけでもなさそうだ。週単位で確実にゴミは入れ替わっている。
ちなみに半径2キロ圏内にはマクドナルドもスターバックスもない。
そんなゴミ箱が、今朝方はなくなっていた。
跡には缶が数本転がっていた程度で、普段より片付いていた。
皮肉である。
なければ捨てない。捨てれないのだから。
困るのは、その横の自販機でサッと飲み物を飲む人である。
純粋にゴミ箱を利用する人が何人いて、缶、ペットボトルのゴミ箱に燃えるゴミを捨てる異端者が何人いるのかはわからないが、
異端者のおかげで純粋な利用者さんが困るのは、なんともやるせない。
ゴミを片付けてくれている人も不本意な心持ちだと思う。
こうやって、街のゴミ箱は消えていくのだろう。
街中で氣軽にゴミが捨てれないのは地味に困る。
ぼくは自分規則で、足元にやってきたゴミは拾うようにしている。
街中に落ちているゴミを見過ごすのはなんとも心地が悪いので、足元にきたゴミだけでもと拾うのだが、都心に近いほどゴミ箱が見当たらない。
同じ地球に住まわせてもらってる人間として、少しでも生活環境が綺麗になればという氣持ちもあるのだが、
これでは、氣軽に綺麗にしようと思ってもなかなかできない。
もしゴミ箱が至る所にあったら、おそらくぼくは足元のゴミだけでなく、少し離れたところにあるゴミも拾っている。が、きっと街はゴミ箱の数だけ散らかるのだろう。
同じ氣持ちを抱えている人はきっと多いのではないだろうか。
ゴミ箱がある方が散らかってしまう現象は、どうにかならないものだろうか。
そもそもなぜ、パンパンになるまで詰め込むのだろうか、分別のことも考えずに捨てるのだろうか。片付けてくれる人のことを考えて利用できないのだろうか。
富士山ではゴミが捨てれない。
富士山の景観を保つためにと、登山者にはゴミを持ち帰るように呼びかけている。
山頂まで登ったが、さすがにどの通りも綺麗だった。
それでもいくらかは落ちていて、登山中も自分規則はしっかり守ったのだが。
ゴミ箱がない方が地球が綺麗になるなら。ゴミ箱なんてなくなればいいとも思う。
が、あった方が確実に有り難い。いつでも氣軽にゴミを捨てれることはやっぱり便利だ。
この問題の先にはきっと、置き配サービスや、シェアリングサービスもあるのではないだろうか。
今の世には有り難いことに、便利なサービスが溢れている。そしてそれらは須く、ある程度の信頼関係のもと成り立っている。我々は顔の知らない相手とでも、ある程度の信頼関係のもと、同じ地球で暮らしている。
その信頼関係が崩れたらきっと、今朝方消えたゴミ箱のように、有り難いと感じていたサービスも消える。
有り難いで溢れた世を、自分たちで壊してしまわないといいのだが。
家族親族恋人友人のみならず、みな同じ地球で暮らしている人間ということを、もう一度思い起こしてほしいと願うばかりだ。