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発信すると愚かな自分が現れる
発信とは愚かさの露呈である。
SNSで批判を浴びて以来のぼくの持論だ。
自前の価値観を発信しただけなのに、辛辣な反対意見や、誹謗中傷とも取れるお言葉を何件もいただいた時期がある。よってたかって、というのか、一時期の自分は何を発しても何かしらの批判を浴びていた。もちろん、ぼくの価値観に賛同してくださる方もたくさんいたのだが、ぼくはどうも、負の方に目を向けるのが好きらしい。
自前の価値観を顔も名前も知らない方々に散々叩かれたことで、ぼくの中に発信することへの恐怖が生まれた。次第に、全て自分が悪いのだと思うようになっていった。反感を買うような発言をする自分がいけないのだと、その発信に傷つき、腹を立てる人がいることを想像できない自分がいけないのだと、人を傷つける発信しか思いつかない愚かな自分がいけないのだと、そう思うようになった。
何かを発すると何かを知らないことになるし、何かを発すると何かを批判することになるし、何かを発すると誰かを傷つけることになる。
発信をすればするほど、愚かな自分が世間に知れ渡っていく。愚かな人間は世間にとっての害悪だ。無論私は愚かな人間であるから、何も発しない方が世の中のためなのだ。
どうしてみんな好き勝手に発信できるのか不思議である。無知を露呈することが恥ずかしくないのだろうか、批判されることが怖くないのだろうか、傷つけることを申し訳なく思わないのだろうか。
誰かを傷つけることをわかっていながら発信することなど、ぼくにはできない。持論をつらつらと語れる多くの方を心から尊敬する
と、数日前まで本気で思っていた。
ところが現在は、noteで毎日発信している様である。
氣にしてたら何もできない。
自分の活動が前に進んだことで、そう思えるようになった。
来月には人生初の紙書籍を発売するのだ。本を届けるためにはまず、声を届けなければならない。発信しなければ先がない状況に陥った途端、愚かな自分と卑下する自分は消えていった。代わりに出てきた自分はなんともずうずうしいやつだ。
発信とは愚かさの露呈である
が、もとい自分は愚かである。
今はそう思えるようになった。
仕方がないことなのだ。自分は愚かなのだから。批判されても仕方がない。誰もが納得できる意見など、愚かな自分には到底申し上げられない。
自分の発信に、少しの賛同者がいればそれでいいのだ。
今さら完璧な人間になんてなれやしない。愚か者は愚か者なりに一生懸命生きているのだ。
叩かれることを恐れて発信しないよりも、発信して賛同してくださる方を見つけられる方がいいと、今は思うのである。