一服の茶を点てる、所作の美しさを楽しみたい・・・
「人と会って、この人の本性はいったいどこのあるのだろうか、とあれやこれやと疑うよりも、一服のお茶を点てるその所作の美しさを楽しみたい」
と言うようなことを、歴史小説家の葉室麟が「孤蓬(こほう)のひと」の中で、茶道家の小堀遠州に語らせる。
小説の話なので、葉室麟の思いを語らせただけなのかも知れない。だとしても、この一言で、茶道を習い始めてからの大きな疑問の一つが氷解した。
そもそも、私が茶道を習おうと思った動機の一番は、小説のための取材。最初は、茶道は「礼儀作法を覚えるだけのモノ」なのかと思った。さらに進んで、「知識と教養を身に着けて行くための方法論」かな、と。それならばと関係の文献を読み漁ると、「これはおもしろい」と気付いた。
私の傾向として、一つのモノにのめり込むと「それを仕事にしたくなる癖」がある。最初は、登山用品の小さなお店を持ちたいと思った。次は、シー・カヤックのお店を持ちたいと思った。その次は、フライ・フィッシングのプロショップを。で、スポーツ・クライミングのジム。ここで、一応、自分の気持ちに区切りがついた。「どれもやはり、素人には難しい」と、情熱の炎は、とりあえず鎮火した。
以来7年間、静かに日々の仕事をこなしてきた。それと同時に、止まっていた小説の執筆を再開。で、茶道を始めた。面白いことに気付いた。礼儀作法も面白いが、茶道を支える周辺の歴史や知識も、私の好奇心を最大限に活性化させた。しかし、日が経つにつれて芽生えた情熱が近頃、低く安定飛行をし始めた。
「この先、茶道は私をどこへ導こうとしているのだろうか?」
と疑問を再び抱くようになった。だいたい、そんな気付きはすぐに忘れてしまうのだが。
そんな折、現役引退を考え始めた。
「引退したら、茶道をメインに据えた小さい旅館を運営したい」
と思って、いつもの女性カメラマンに、
「一緒に旅館をやらないか?」
と声をかけた。彼女はすかさず、
「それって、私に投資しろ、ってこと!」
と拒否反応を示した。
「そうじゃなくて、旅館の女将さんにならないかってこと」
「無理。でも、出来たらお父さんと二人でお伺いします」
と、やんわり断られた。
と、そこで終わらないのが私の悪い癖。断られたんだから、そこで辞めとけばいいのに、
「これって、個人のレベルでやるよりも、会社レベルでやればいいじゃん!」
と、どういう訳かその方向へ発想が飛躍して行く。
しかし、心の奥底に一抹の疑問が残っていた。
もし「新規事業計画」が「瓢箪から駒」で通ってしまったとしたら、残された人生を生きて行く「暇つぶし」の方法論として「茶道を中心に据えた小さな旅館」はいい。しかし、「茶道」は私の心の「滋養」として、何をしてくれるのだろうか? と思った。
そんなおり葉室麟の小説の中で、小堀遠州をして言わしめた一言に出会った。
「人の本性を見極めようと詮議するより、一服の茶を点てる所作の美しさを、見ていたい」(※こんな意味だったと思う)
その一言が、私の迷いを氷解させた。
「これからの私の人生の目標とするに、過不足ないものであろう」
と思った。
次のお稽古の席では、厳しい美人のおっしょさんに、
「人が見て、一服の茶を点てる所作が美しいと言われるような、私の茶道を目指します」
と、宣言するつもりである。