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恋歌は、それなりに日常生活に影響を及ぼす
最近、茶道教室で、
「お点前3割、古典文学7割」
と、教えられてから古典文学の勉強に励んでいる。源氏物語りに始まり、万葉集、古今集、伊勢物語と手当たり次第。そうこうしていると、自分の中で「石田純一化」が起き始めていた。彼の名言、
「不倫は文化である」
は、有名だ。一世を風靡した。
とにかく古典文学の世界は、どれもこれも不倫と一夜限りと、出会い頭の男女の出来事ばかり。これで、日常の行動に影響を受けないのなら、文学には何の使命も存在しない。ところが幸か不幸か文学は、当然の如く、人間の思考回路を変革し、やがてそれは行動に現れて来る。
困った。このまま日本の古典文学にのめり込んでいけば、その先に待ち受けているのは「愛と欲望の雅な世界」と言うことになりそうだ。
「雅を理解できない男は、一人前ではない」
と言う言葉がある。また、キリシタン大名の高山右近は、
「雅とは生きる事」
と言ったとか言わなかったとか。いずれにしろ、雅は人生において重要な位置にあるようだ。
私のような雅に対する免疫の無い男には、かなり強烈に副作用が起きるということを、身をもって体験した。
「さつき待つ 花橘の香をかげば むかしの人の 袖の香ぞする」
古今和歌集の読み人知らずの短歌である。一方の「伊勢物語 六十段」では、昔別れた女房への当てつけの歌として紹介されている「花橘」の句である。
この短歌の「袖の香」を茶杓の名として、季語は短歌の中に使われていた「花橘」で、夏である。
こうして短歌をお道具の銘として使うことを「歌銘」と言う事を知った。それ以来、どんどん古典文学にハマって行く私である。
先日の茶道のお稽古の時のこと、そんな私に、おっしょさんが気を使ってくれた。
お稽古で貴人点て(きにんたて)の、お稽古を見学させてもらっていたときのこと。おっしょさんがお弟子さんに向けて説明した。
「亭主が、お茶杓の銘を清流と答えました。それを受けて本来なら、貴人は清流という言葉を使って短冊にすらすらと一句読み上げます。それほどの教養があるお方だから、貴人と言われるのです」
と、私が側で見学していることをわかっていて、お点前と和歌の関係を解いてくれた。
それができれば、正に風流なお方、である。
私の人生の当分の目標である。
やらなければならないことが沢山あって、恋愛に失敗して落ち込んでいる暇はない。
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